小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

二週目

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こんなことも珍しい...と思う。

3週連続週末「雨」

 


従って、3週連続週末「片付け」

 


かといってケチ臭い性分なので、大胆な断舎離など期待できるはずもなく...

...でも、随分スムーズに動けるようになった。

 


「片付いた」...と称せないのは、そこまで至らないからだが...

「通り道」と「取り出し」がスムーズになったことぐらいの効果はある。

ただ...「見た目」はあまり変わらない....

 


自分じゃ「きれい好き」「整理好き」だと思っていたが、そりゃま「好き」なのかもしれないが...”実行”は伴ってなかったよな...とは思う。

大した”片付け”ではないのに、妙にスッキリしているのは、”今までにない”光景だからだろう。

 


明日も雨だ。

まだまだ整理すべきところはあるに決まっているんだが....

何と言うか...「一周目」は終わったかな?というカンジ。

なので、明日から...いや、「今」から...二週目に突入いたしますぞよ....

一旦休憩

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仕事...そして家に帰れば...片付け...の連続で、

その努力?の割には喜びもなく、少々飽きてもきたし、疲れてもきた。

 


日曜日は何もやる気はしなかった。

が、それでも月曜日の準備やらトレーニングやら最低限やること決まっているので、それらをこなしてのボクシングに総選挙に台風に...

と、実に慌ただしい週末だった。

 


で...明けての今日。

少々残念だが、どこを向いても画期的に片付いているわけでもない。

段ボール8箱分ぐらいは処分したはずなんだが、一体それらは何処にあったというんだ。

何のための四日間だったんだ...ぐらいに乏しい変化しかない。

 


が、それでも...

「要らないものを案外たくさん持っていた」ことや

「使えるのに忘れていたものがあった」ことや

「こんなものまで持っていたのか」モノがわかったことは...

無駄じゃない。

本来は、ここで2周り目、ガバッと、ザクッと、ダイナミックにまた片付けをすべきなのかもしれないが...

奇しくも晴天が続きそうだ。

 


そういや今年の週末は天候に恵まれていた方なんだろう。

「晴れたらまず外に出る」

ぐらいに嫌々な庭の手入れとて、遅れていないのは自分の気力のおかげではなく、天候に恵まれてのものだったのか...とかも思った。

その裏番の「部屋の整理」は滞ることにもなるわけなんだが...

 


ってなことで、ここでもう一段「大袈裟な整理」に向かうには気力が途切れた(笑)

なので、ここからは、一つずつ。

要らないモノを見つけたら、

使えないモノを見つけたら、

壊れているモノを見つけたら、

「一つずつ」であっても、いちいち処分してゆこう。

そもそも、そういうことをしないから溜まるんだろうし。

いや...

そういや色々な事がそういうタイプだぞ。

いつも「溜まってから」...的な。

溜まる前に「一つずつ」片付けていりゃいいものを。

 


そういうのは性分なんだろうか?

いつも「溜まってから」なので、余計に出だし「気が重くなる」根源のような気もしてきた。

とりあえず毎日「一つずつ」か?

簡単に言ってそういうマメさがないということなのか?

いつの間にか不要物になっていた

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buunanomeさんには申し訳なかったんだけど...片付けから逃れたいだけの記事だったんで削除して書きなおし(笑)

 


"片付け"なんて、誰とも話すことなく黙々と作業を進めるだけなんだが...要るモノなのか?要らないモノなのか?から始まって様々な自分の”今後の”生活は想像する。

 


今回そこで感じたのはやはり...

けっこう歳を食った...だ。

 


もちろんまだまだ現役で、老け込んでもいられないんだが、社会から要請される年齢というのもある。

かなり能力のある投手でも、40歳がドラフトにかかることはない...

 


つまり...能力さえあれば需要があるというわけでもない。

大きくは「残された時間が長くはない」からだ。

 


「歳の割には凄いですね。」

というホメ言葉もある。

付け加えるなら「若かったら特に大したことはないんですけどね」だろう。

 

 

「まだまだ現役なので頑張れねば」という気概は大切なんだろうけど...

やる気さえあれば、何でも受け入れられる...というのも甘い観測だ。

 


2枚目のスターで、結婚したり、子供が出来たりすると妙に人気が落ちていく場合がる。

かと思えば、そういったスターの人気が陰る歳の頃から妙に脚光を浴びてくる役者が居たりする。

なので「歳のせいじゃない」と言われたりもするもんだが...

ある意味こういった現実は、「年齢の受け入れ方」というある意味”歳”への感覚が大きく関係しているような気がしてならない。

 


自分は若々しくはしていたつもりだが....その分、幼稚であったようにも思う。

それは、所有物にも表れているんだと....改めて今回思ったかな?

 


「こんなもの大事に持っていたのか?」という所有物は、いつまでもそれぐらいの若さは保っていたいという願望はわからんじゃないが、日を追うごとに似合わなくなっていくようなシロモノだったりして、

”そこが”想像できなかったんだろうか?とも思える。

あたかも、孫や子供らとのトランプで真剣になって「どうだろ、おじいさん凄いだろう」と威張りたいだけの”勘違い”にも似ているような....

こんな歳になって遅すぎるぐらい遅すぎるが、けっこう大人に成りきれていないんだよなぁ....と呆れてしまうモノの多いこと。

 


そして....いつの日か”また”子供達と出かけることもあるかもな?

と、思ってとっておいてあったんだろう、バーベキューやスキーや海水浴用品の多いこと。

恐らくもう二度と行かないだろうに(苦笑)

 


多分”モノ”だけじゃない。

これでも家族を支えるために我武者羅に頑張ってきたつもりはあるんだけど...

その必要度のピークも越えたように思う。

そして、これからさらに年々減ってゆくんだろう。

自分自身の場合を振り返るなら簡単にわかること。

これが歳を食うということであり、人生なんだろう。

 


新たな人生観を身につける時期がやって来たんだろうな。

 

雨用片付け

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あまりにも家の中が散らかってくると...

せっかくの行楽日和や庭作業日和にも、家の中を片付けなきゃならなくなる時がある。

 


そんな時は...「もったいないよなぁ...」と決まって外の気候を羨んだりするものだが...

そういうことのないように、

”雨用”なるメモがあって、少しばかり散らかっていたりしても、まとめて”雨の日”にやればいいさを応援するようなメモがある。

ここんところ、大活躍。

 


の反対に、外の用事はまったく進まないどころか、ここまで遅れることなくこなしてきたので、やや心配にもなっているんだが...

芝もまあ少し早すぎる刈り止めまでは施してあるので、また晴れた時からやり直せばいいか...ってか...それしかないし。

 


となると...長雨続きの昨今、相当に家の中も片付いてきているように期待したいんだが....

それほどにも甘くはない。

片付いた...というよりは...移動した....ぐらいの程度のもの。

しかし...片付けというよりは...むしろ...歳を取ったな....といろいろなモノを見ていてそう思わされる。

 


「全く使わなくなったモノ」でもとってあるのは...「いつか使う」からであって、”ほとんど新品”のようなモノも少なくない。

また、こういった”検品”のような作業はこれまでも何度か繰り返されていて、その都度”残ってきた”ツワモノのような存在だったのに....

ついには「もう要らないな」となっているモノの多いこと...

 


断舎離とはチト意気込みが違う。

何を例にしたらばよいだろう?

若い頃にたしなんだ競技スキーの長いスキー板を大事にとっておいても、「もう出番はない」。

そんなところだろうか。

....

ようやく....というか....ついに...「諦めること」が出来るようになってきたのかもしれない。

 


”年貢の納め時”などとも言う。

「諦めてしまうにはまだ早すぎる年齢だ」と頻繁に聞く。

悪いが「諦めてはいない」と思う。

が、気持ちの上での”不要”だけじゃなく、持っていても、持とうとしても”無用”であるモノの見分けをつけることは、今後の道なりにとっても有効じゃないかと思えてきているのだ。

 


でなくても、散々混沌としているし、散々迷っている日々だ。

そこに不要物の保管まで、不要思考の保管まで、

混ぜ込んでいたらば、そりゃあ”道”は見えんぜよ。

 


とまあ、片付けをやりたくないので、こんなところで能書き垂れてんだが...

そろそろ片付け始めようか....

後悔の穴

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「若い時にもっとちゃんと勉強しておけばよかった...」という人は多い。

自らの子らにそれをはっきりと公言して努力の大切さを伝える人らを冷ややかに見ていたつもりだが...

本当に後悔しているのは伝ええることさえ放棄していた自分かもしれない。

 


”勉強”だけでなく、”試練”とでも言おうか、

それも大袈裟なことでなく、塾へ行く、とか、習い事をする、とか、教えてもらう、とか....

そういうことが嫌いでとことん逃げてきた。

定期テストさえしかり...

逃れられないのが受験であったがため、そういった試験はとりあえず受けてはきたんだが...

こんな人生だった。

 


そんな運の良さ?は継続できるはずもない。

似つかわしくない努力のステージに上がらされることになった。

そこで出会うのは”苦手な人々たち”だ。

いわゆる”人生頑張ってきた人”だ。

 


そんな人達を自分は多分学生の頃は小バカにし、からかったり、見下してきたと思う。

が、そんな人々は、自分に比べてうんと若い頃から目標があったり、努力の必要性を知っていたり、もっと常識的だったりしたんだろう。

堅実...というよりも、いわゆる”ちゃんと”生きてきた人達だ。

 


若い頃、遊びまくっている時代には、そういう人達から「うらやましい」と言われることが多々あった。

そういう言葉を真に受けるほど馬鹿だった自分は、大いに自惚れもした。

真面目に努力せず、遊んでばかりなのに、軽々しく人生を生きていられることを。

 


...そんな軽々しい爽やかな?人生に疑問符が付き出したのが10年前か...

自分が間違っていたことに気が付き出したのが7年前か...

今じゃ賑やかだった若い頃は、単に軽薄で浅はかだった”完全に後悔すべきもの”になっている。

 


今さら言ったってしょうがない。

今さらやり直せるはずもない。

今から取り戻せるはずもない。

 


目から血が出るほどに重々しく後悔しているわけではないが....

「もう今さらどうにもならんさ」とは思いたくないようだ。

 


それだけが救いか?

 


努力、努力、といい歳こいてアホなように連呼しているのは、やるべきときに逃げてきた自分への”後悔”だ。

こんな類の人間なので、”周り”も似たようなもんだった。

まさに類は友を呼ぶ。

若い頃にはその顛末具合もぼんやりしていたが...

この歳になるとハッキリしてくる。

派手な遊び人の成れの果て...

 


もう少しマトモな思考の人間だったなら...

わかればわかるほどその”後悔”は増大しているんだとも思う。

 


マトモな人々は、自分がアッサリと逃げ出していた”辛抱すること”やら”我慢すること”に耐えていたんだろう。

人知れずに。

いつか誰かに聞いたことがある。

「人生苦労の総量は同じ」だとか....

なるほど...

なので、俺は、こんな歳になった”今”を、そんな時間に当てなきゃならないんだろう。

 


嫌に決まっているが...

誰のせいでもない、まさに自分でしでかしてきた人生のツケだ。

 


こんな根暗なこと認めたくはないんだが...

自分の努力の原動力は多分...「”後悔の穴”を少しでも埋めたい」ってな後ろ向きなところなんだろう。

まあ、投げやりになってしまうよりはマシか...

 


ということにしている。

 


ただ、逃げてきた期間から察すると...

まあ、死ぬまでこのこの状態は続くんだろうな、とも思えるのが、ちょと嫌だ(笑)

ま、自分が悪いんだけど。

錯覚

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"混沌"となっている原因の一つに”スポーツ”があると思っている。

今は”体調管理のため”のトレーニングとて、最初の頃は”ダイエットからの現役復帰”をもくろんでのことであったし...

 


今じゃそれほどのスポーツへの”こだわり”が自分でもわからないのだが...

多少なりともその分野でメシを食ってきた”過去の栄光”ってか、褒められる部分の少ない自分にとって唯一賞賛を受けた分野であったので、

手放してしまうことでの不安を払拭できないのだろう。

 


トレーニングはいつしか18年になった。

負荷は相当に低くなっているので、トレーニングというより傍から見たらば”単なる健康運動”なのかもしれなが、

飲み食いタバコし放題であった自分が、今現在でもそこそこ健康に生きていられるのはこの”健康運動”のおかげであることは否定できない。

ものすごく簡単な話が、健康でなければ”余分な運動”なんかする気にもならない。

 


が、だからこそ”いつまでもスポーツマンであるような勘違い”から離れられない。

見てくれだってとうの昔にスポーツマンじゃない。

そりゃあある程度鍛えているし、体調だけでなく体型にも気を使っているので、一見すりゃあ今でも運動出来そうなものだが、正直いくら出来たとしても若い頃のソレとは違う。

違い過ぎる。

 


わかりやすく言うとフィギュアの公式練習で羽生君はじめ若いスター選手が練習する中、多少腕に覚えのあるジジイが突然現れ、自慢げに一回転ジャンプを披露するレベルだ。

たしかに昔取った杵柄で”一回転”はなかなかきれいだが、二回転は絶対飛べない。

そういう運動能力になっている一回転だ。

”イナバウワー”も出来るのかもしれない。

が、これも「ものすごく曲がっている」のではなく、「イナバウワーに似ているぐらいに中途半端に曲がっている」ものだ。

そんな程度にしか出来ない現実がある。

でも、何もやっていない同年齢に比べたら、”とりあえず”運動が今でもこなせる。

これを”自慢”しているようなものなんだろう。

 


若い頃なら「今はそんなレベルであっても」...この先練習してゆけば「今よりはうまくなる」期待が持てるものの、

今後衰えの加速度が違ってくる自分の年齢じゃあ「もっとうまくなる」なんて期待は幻想でしかない。

浅田真央でさえ引退するんだ。

 


...スポーツの楽しみ方はそんな狭義なものでないことはわかる。

が、いつまでも”白昼夢”を見ているわけにもいかない。

それでは現実にも迎合してゆかない。

つまりは....いつまで経っても”混沌とした毎日を送るだけ”のことになる。

 


ということで、長いこと御世話になってきた”スポーツ感覚”から少し離れようと思う。

恐らく人生物ごころついて初めてだと思う。

ずっと運動と共にあった。

現役から離れている間でも、どっかしらでスポーツとの関わりがいつもあり、自分自身ではないがスタッフとしての関わりからでも日本で二位にもなったりもした。

そんなことも、ある意味、自分にとっては”勘違い”の原因になっているんだろう。

とうの昔に自分自身は”現役ではなくなっている”のに、”今でも通用するかのような”錯覚に。

 


案外”寂しい”とかの気持ちはない。

むしろ「いつまで青春やってたんだ。馬鹿じゃねえのか?」の思いの方が強い。

それだけに冷静に振り返っているのかもしれないが、とうの昔に似合わなくなっている道具やコスチューム?の多いこと(笑)

それだけ”しがみついていた”ということなんだろう。

なんせ”自慢のネタ”も運動しかなかったしね。

 


トレーニングは続けるつもり。

が、自分にとって断舎離すべきは”スポーツ”だったんか?

というのは、なんだか笑えるような笑えないような...

 


...こんなこと...社会人になった時に分別しとかなきゃいけなかったことなんだろうけど...

まあ、随分愚かな人生なもんだな、と重ね重ね思う。

混沌

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"混沌"は続いている。

いや、”この先も”ずっと続いて行くんだろうという気になってきている。

 


思考を巡らせる時間が増えているので、”一時的な迷い”なのかもしれないが、まあ外れてはいない気がしている。

 


”こういうところ”が単純だったんだろう。

漫画やテレビドラマや映画の影響が大きいのかもしれない。

どんなに雨が降り続いていても、霧の晴れない毎日だとしても、いつかスッキリと晴れる日はやって来ると....

苦労すればしただけいつかは花開く日が来ると...

どっかで思っている方だったんだろう。

 


が、最近その想定は”現実的ではない”ことに気が付いてきた。

今日もどっかのコメンテイターが言っていた。

北朝鮮の問題は大きく進展することはなく、”ずっと不安を抱えたままの日本”で行くんだろう」と。

 


あまり好きではないコメンテイターだが、妙に納得した。

 


モヤモヤを引きずるのは嫌なので、仮に悪い方向であっても「早く決着をつけたい」と思う人は少なくないだろう。

いわゆる「生殺し」はやめてくれ。というヤツだ。

 


が、それぞれに”事情”というものがある。

「生殺しはやめてくれ」は自分の事情だ。

「そんなこと知るかよ。コッチはコッチで大変なんだ」という人も居る。

社会はその絡み合いで成立している。

ウインウイン。双方平等な合意。は、煮えたぎる我慢を半分ずつの”裏返し”かもしれない。

かつていつも期待していた「スッキリした結末」は、単に希望がかなった”一部以外”を黙殺する...もしくは”視野が狭くて”見えてなかっただけ、のことなのかもしれない。

 


このままスッキリすることなく、死んで行くのかもしれない。

いや、死んで行くものなのかもしれない。

そう思うと妙なもんだが少しばかり”諦め”もついてくる。

いつの日かの青春ドラマのように、最後は「熱い抱擁」だったり、「涙の激励」だったり、みんなで「夕陽に走ったり」するのが混沌からの結末だと期待していた方が幼稚というものなのだろう。

いい歳こいて少し大人になったのかもしれない(笑)

 


こんな具合に考えていたらば、ずっと混沌と過ごして行くには、ただでさえ頭が悪く迷いやすいのだから、少しぐらいは”身辺整理”をした方が良いんじゃないかと思えてきた。

まだ”終活”を始めるには早いと思うんだが....

 


”節目”というものがどんなものかと考えてみた時...

「”今まで”のことが通用して、”これまで”のモノがまだまだ必要な時」ではなく、「”今まで”のことが通用しなくなって、”これまで”のモノが”実はとっくの昔に”必要ではなくなっていた時」じゃないのかなという気がしてきた。

先日も棚の奥からけっこう古い趣味の道具が出てきて、それがまた風化して使い物にならなくなっていたのを見て...「こんなものをずっと引きずっているんだろうな」とか思った。

 


断舎離のプロのような方々も”はてな”には多いので、うかつなことは言えないんだが...

これからの人生に持っていかないモノをたくさん抱え込み過ぎているから余計に混沌としているのかもしれない。