小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

書き直し「努力」って...

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ごいさんのコメントに対しての返事が、急いで書いたせいかどうにも中途半端な気がして....

ちょっと書き直しします。

 


「努力」って...その大切さは、習字のお題で何度も書かせるほどに...”大人たち”は言ってきてくれたはずです。

が、残念なことに、はねっかえりだったからか?聞いてなかったのか?アホだったからか?「俺は他人よりも優れた能力を持っている」と勘違いできるDNAを持っていたからか?

ものすごく軽視していた時代を送っていたのは確かです。

 


カンタンに言ってしまうと、5分でも努力したらば一日中努力していたかのように思えたり....

徹夜でもするなら一年中努力したと思えたり....

一カ月も継続できたなら、生涯やり続けてきたように思えたり....

そんなところがありました。

 


なので...人の「努力」さえも軽視するところがあって....

というか「努力」の扱い自体をナメていたのでしょう。

頑張って結果を出せない他人より、頑張らないのに結果を出せる自分が素晴らしい!.....

と、思う人間でした。

 


人間は急には変わりません。

これは俺、間違っているな...と気が付いてきても...沁み着いてしまっているものはなかなか落しきれません。

人生遅まきになってようやく「努力」の大切さが頭では理解できるようになってきても、「行動」や「習慣」は変えられない....

つまり何も変わらない....そんなところでした。

 


が、フトしたことでささやかな「努力」の習慣が始まりました。

受験勉強でさえせいぜい3カ月程度だった自分にとって一年を超える継続は初めてでした。

しかし結果は....期待にはほど遠いものでした。

ここもカンタンに言ってしまうなら....

「努力」は簡単には結果を生まない。

ということになります。

 


思い通りにならないのですから不満は募ります。

おかしなもので、不満を解消するがために「努力」するようになったから、”不満”が募るようになったわけです。

今まで軽い努力とは言えないような”工夫”で軽い結果を出してきた自分にとっては、おかしな心境がはびこります。

それぐらいからでしょうか?

「努力」することや、「努力」の成果を長い目で見てみようか、と、思うようになったのは....

 


今からほぼほぼ20年ほど前ぐらいからでしょうか?

「努力」とはそんなお付き合いです。

 


いまだに大した「努力」はやっていません。

やはり残念ながら小さな頃から沁み着いてしまった性質というのがあるようで、相変わらず苦手なのでしょう。

が、けっこう継続しているものはあります。

それがどれもこれもなんですが....

一時はその成果を感じつつあったのに....

最近ではどれもこれも大したことなくなってきて....

というところなんです。

 


なので自分にとって「努力」は、案外はかないものになっています。

 


ただ....

どんなこともそうだと思うのですが、机上の空論は机上の空論です。

いくらコンピューターの精度が上がっても、実際にやってみないとわからないことは世の中の99%ぐらいを占めているんじゃないでしょうか?

「努力」を体験すると、それが素直に理解できると思います。

妙な言い方ですが、成果の出ない「努力」を継続してきたものにしかわからないことがわかるようになると思います。

それが意味のあることなのか無意味なことなのかはそれぞれの人生観にもよるでしょう。

が、私の場合は、「努力」の成果そのものよりも、成果が出るのか出ないのかもわからないような「努力」を継続してきたものにしかわからないことがわかる、ことに意味はあるように思うようにはなっています。

 


それがコメントへの答えです。

一年継続した「努力」でさえ成果が出ないものなのに、たったの一日頑張ったぐらいで成果を期待するもんじゃないし、それを「努力」と言うべきではないだろうと。

 


と、まあ、偉そうに書いていますが、何度も言うようにあえて、こんなことをブログに書いているのは、自分がそもそもの勘違い人間だからです。

少しばかり頑張ると、一年ずっと頑張ってきた心境になるのは自分です。

大して頑張ってもいないくせに、結果が出せない時に限って残念で、「頑張れたことだけでも意味がある」と自分を慰めているのは自分です。

ただ...そういうことが....

多少はわかるようになってきたことが、「努力」をするようになった、つまりは「努力」の大切さを軽視しなくなったささいな「成果」なのかな、とは思ったりします。

 


私は20年ほど前にようやく始めた「努力」なのですが、それまで何十年と軽視してきたわけで、その間生真面目に努力をされてきた方々も大勢居るわけです。

”その差”に気が付いたのは、20年前ではなく、10年ほど前です。

不幸にして報われていない方も居るようですが、でもやっぱり私とは大違いです。

つまり....努力するようになってからじゃないとその「努力」の差にさえも、気が付かない....と、まあそういうことなんだろうと思います。

 


今の私がうまく行かない毎日なのは、努力不足だった日々の延長を生きているからなのでしょう。

後悔はしますが、深刻には悩まないようにしています。

どうにもならないことなので(笑)

 


「贖罪」と言うのでしょうか、人間ピークに向かって行く時は、力任せの理屈で自分をもねじ伏せることも出来るようですが、人生の峠も過ぎるとマイナスも素直に受け止めた方がスムーズになるようにも思います。

 


徳川家康の遺訓

 


人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。

勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。

及ばざるは過ぎたるよりまされり。

 


は、まさに下り坂だからこそ見えた境地であって、家康といえども上り坂の若い頃には見えなかった世界観だと思います。

 


私には当然ながら家康ほどの能力も努力も精神力もないので、重荷だけが目立つのでしょうが、家康が言うように”このような状況”は死ぬまで変らないようです(笑)

「そうじゃない。楽しく愉快な後半もある。」というような人も居られるようですが....

まあそれは嘘か、誇張か、願望か、

いずれにしたって目を背けているという状況なのでしょう。

 


私は家康の足下にも及ばないのですが、せめて現実と向き合って生きていきたいと、

そう思っているだけのことです。

 


相変わらず毎日うまいこと行っていません(笑)

でも、それが現実なので仕方のないことです。

大したことないけど...少しずつ変えている....

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"jyouhou "って言うのか?

お殿様でもない自分に、整理きれないぐらいの情報が、毎日山ほど届いてくる。

有難いことなんだろうけど....

それこそかつてなら....プーチン様や、習様や、トランプ様にしか届かなかったであろう”海外の”ニュースまで飛び込んでくる。

なんとか48だの、ナントカ46だのは、合計したらばもはや1000ぐらいにはなってんじゃねーの....となると....

そこに....”親戚”だとか”幼馴染”とかが居てもオカシクはない。

 


そんな環境は....幸せなんだろうけど....

”勘違い”しないんだろうか....

あたかも自分が、安倍総理と同じぐらいの情報量を持っているかのように....

 


いやいや、流石に総理大臣はないだろうけど....

辻元清美程度には情報持っているかのような書き込みが溢れているのを毎日見ていると....

庶民が自惚れ過ぎているな...とは思う。

 

 

....早く打たなきゃブラインドタッチの意味ないって....ということで、スピード重視で、物凄い勢いで確実に?間違えながらも、それを都度都度修正しながら打っていたものを...

少しゆっくり目にして”間違い”を少なくして打った方が結果早いんじゃないかと気をつけていること。

 


毎週習慣のように見ていたテレビ番組を、所用と天秤にかけて「今週見なくたって大して困ることはないんじゃないか?むしろ所用を済ませた方が気が楽になるだろう」とパスすることが出てきたこと。

 


筋トレのノルマの回数達成できなくても...故障して結果休んで筋肉量落してしまうよりもマシじゃないか?と注意するようになったこと。

 


全く服・靴買わなくなったこと。

 


趣味の道具を整理し始めていること。

 


まずは仕事から片付けるようにしていること。

 


うなじ、鼻毛、眉毛、耳毛、細かなところの処理に気をつけるようになったこと。

 


ギリギリまで時間を使わず、余裕を残して早めに到着するようになったこと。

 


....カンタンなことなんだけど....今まで疎かにしていたというか、あまり気にしていなかったけど....案外これらでつまづいていたようにも思えてきて....

少しずつ、どれということなく、気が付いたものから、一つずつ、一つずつ...”これまで”とは変えている。

 


なんてことはない...ことなので....「なんだソレ?」と思う人も多いだろうけど...これで良い、

これで良いんじゃないかと思い始めている。

 


俺の周りは小物ばかりなんだろうけど....

そんな方々の言ってきた”大きなこと”は...どうやら実現しないままに終わりそうだ。

夢だ、理想だ、目標だ、そんな小さなことにこだわっている場合じゃねえんだ.....

と言っていたような気がするんだが....

”結果”....”大きなこと”どころか小さなことさえ出来ずに...いつしか歳を取り、大ボラはついぞ相手にされなくもなってきた。

 


”言うだけ”で終わった。

それでもう半世紀も過ぎたというのに、結果”言うだけ”に終わった。

つまり....

「俺はそんなみみっちいことは狙っていないんだよ」と馬鹿にしていた”小さな穴”さえも掘れなかったわけだ。

で、リタイヤだ。

 


俺にも大きな穴を掘るような能力はなかったようだ。

でも....そこに気が付くのがギリギリには間に合ったのかもしれない。

”小さな穴”なら掘れるかな?と。

 


で、今のところ感じているのは、こんな小さなことの集まりなんだけど....

「さあ、今日から、今までとは違うこのようなやり方に変えましょう」...と大きな掛け声出しても....

「いっぺんには無理」だということ。

どんな能力の高い人であっても。

所詮は一人の人間なので。

一日死にそうなぐらい悩んで行動しても一日分にしかならないということ。

 


小さなことでも毎日毎日なら一年たてば365日分ということか?

 


そりゃそうだろう。

人間どんだけ頑張ったって一日に365日分は出来ない。

”たったの一日”で人生を変えたいなんざあ....

自惚れ過ぎだ(笑)

盆終了

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終わってみれば庭仕事に終始した盆休みだった。

バテた。

 


けど....雨が多くて進まないことを思えば贅沢な話でもある。

そんな年はまた別のストレスもたまる。

 


やり過ぎたほど庭整備が進んでいるので、一週間分ぐらいのストックはある。

その心の余裕は有難い。

 


庭仕事は基本一人だ。

誰もかまってくれない。

最初から最後まで。

なので、孤独だ。

が、だからこそ自分と向き合えるようなところもある。

麦わら被って、濡れタオルを首にまきつけて、蚊取り線香ぶら下げて、長靴履いて....

格好良いところは一つもないので、そもそも人にも見られたくもない。

変な話心までみっともなくなる。

というか、格好のつけようがない。

 


そんな機会が多かった....ということにもなる。

何しろ前倒しで進んでいるので、少し遊びに出かけても良いもんだ。

でも、庭を優先した。

深く考えることはしなかったけど、そうなった。

 


それ以外はトレーニングに。

そして、部屋に戻れば仕事の整理....なんかもした。

それでも時間が余った時には、趣味の用具を少し再編したりもしてみた。

行きもしないのに(笑)

 


趣味についてしばらく考えてみたんだけれど....

結局それはまあ仕事が無くなってからでいいかな?と。

体力やら経済力の問題はもちろんあるだろうけど....

基本、趣味はお金さえ出せば、喜んでやらせてもらえる場面は多い。

に対して...仕事はお金を頂く作業なので、なかなかやりたいようなものには出会えない。

とりあえず....我慢できる範囲の仕事にありつけているだけでも幸せな方だと思うなら....

やっぱり優先するのは仕事の方だ。

 


かつては遊び人だっただけに、昔の友人には今もなお”遊び人のまま”である人も少なくない。

さまざまなSNSで報告してくれる。

大半は資産家のご子息だったり、ヒモのような生活が出来る人だったり....なんだが....

同じ釜の飯を食っていただけに、自分だけが?趣味も置き去りにして働いていたりすると....妙な抵抗感が沸いてきたりするのも正直なところ。

そこへの割り切りだ。

 


彼らとは...もう同じ運命のライン上には居ないんだと....

なので...戻ることもないだろうと....

言い聞かせた方が良いだろうというのが結論だ。

 


彼らのような生活に違和感を持ち始めて約20年....

距離を置くことを決断してから約10年....

その間にも、彼らはずっと自由を謳歌していて楽しそうだった。

それに比べて仕事、仕事で息苦しく、時には呼吸していないんじゃないかぐらいだったから....

彼らを正直羨ましく思うこともあるほどにうまく行かないことだらけの仕事人生だったけれど....

”その間に”彼らには持てなくて、自分は持てたものも、案外増やしているのかな?

とか....

 


少し涼しくなった庭の夕方に独り思ったりもした。

 


まあ...何もかも....は欲張りだ(笑)

 

時代の移り変わり....ってなこともあるんだと思う

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ちょうどボクシングが話題になっているけれども....

私の中の永遠のヒーロー”矢吹丈”は勉強なんかしない。

喧嘩ばかりしてボクサーになっていった。

最近の官僚や政治家よりもうんとどこかのボクシング会長に似ている。

 


勉強を教える教師とて、中村雅俊なんかだと、丁寧に教えるどころか、思い通りにいかないと殴っちゃうし、そのくせすぐに心打たれて泣いちゃうし、なんやかんやで夕陽に向かって走っちゃうし、

挙句....ギターを抱えて歌えば....一見落着となるので、昨今の教師から見たらば....信じられない教師像だ。

が、そんなのが”憧れの教師像”とされたりした。

 


木暮修や工藤俊作は肩書は一応”探偵”ということにはなっているんだが...

定期的な収入すら約束されず、不安定というよりも将来の全く見えない生活になっていた。

フリーターというよりはもはやプータローに極めて近い。

が、それでも超格好良かった。

それこそ霞が関に通うエリート官僚に傾倒していた方がうんと将来のためになっていたと思われるんだが....実力は別にしてガリ便のなれの果ての疲れたオッサンに憧れを抱くような人は、よほどの先見性のある人じゃないと無理だったろう。

 


私の周りだけだったんだろうか?

”結果”よりもむしろ”生き様”のようなものにスポットが当てられ、傍若無人で豪快な様が、”格好良さ”の指標でもあったように思う。

そりゃあ昔から週刊誌による「難関大学ベスト100」やら「憧れの就職ランキング」なんてのはあったけれど....

そこにハマっていないからこその”価値”ってのがもう少し大事にされていたように思う。

良いか悪いかは別にして。

 


例のボクシング会長を見ていると、そんな時代だったから許されてきた人物なんだろうとも思える。

私の身の回りにも決して少なくない。

いい歳こいて「いつまでたってもサーフィンが好きだから」「海が好きだから」....という彼を支えるためなら苦労もいとわないのだろうか?奥さんや、奥さんの実家が援助してくれるからこそやりくり出来ているサーフショップは、事業として成立しているとは言えない。

ある意味ヒモのようなものだ。

そして例のボクシング会長ともウリ二つの生活。

 


野球ってのもプロを目指すとなるとしゃれにならないぐらいにお金がかかるそうだ。

それゆえに断念せざるを得なかった家族も知る。

が、嫁の実家からの支援があったからこそその夢を継続できている奴が....「お前ん家はそんな簡単にも諦めちゃうの?....」って....

「お前だけには言われたくないわ」

という話だ。

 


でも....

そういう人らが、許されてきた時代でもあったように思うのだ。

ある意味息苦しくないというか....

青田赤道であろうとも、がきデカであろうとも、そんなに難しい事考えずに、週末に”元気が出るテレビ”を見るならば、俺も一億総中流の一人なんだろうと思えたからこそ.....

本業が駄目なら趣味でも、道楽でも、別の土俵でも....

と、生息場所を変えてでも、生き生きとしていられる場所を探せた時代だったということだ

探していても許された時代だった...

と....思うのだ。

 


ボクシング会長に問題がないわけがないが、その発覚だけでもないと思う。

クソ真面目な努力こそ実力発揮の根源だとして生きてきた官僚や大企業のエリートが「いつまでも一緒にしてくれるなよ」と怒っているのだろうか?

「世の中は平等なんかじゃないんだよ。家柄も名誉もそれらに連れ立ってついてくる財産も、結果を出せる実力があってこそ、なんだよ。」

と、今、更に、強調してきている時代のような気がする。

底辺が追い付けないほどに引き離したのを確認してから。

 


コンプライアンスという名刀?をふりかざし、はみ出た野郎はバッサバッサと斬ってゆく。

はみ出ようとするものも容赦しない。

 


こんな時代じゃあ、俺の大好きな木暮修はヒーローにはなれなかっただろう。

一部のうらぶれたマニアはつくかもしれないが....

少なくとも豊かで安定した生活を望む女性にゃ好かれない。

ましてやIT企業の社長と付き合おうとするような人には好かれない。

よりどりみどりな女子アナが木暮修と付き合うとは思えない。

そんな奴に憧れて真似をしたいという男子なんて出てくるはずもないだろう。

そんな暇があるならば、少しでも竹内涼真君の爪の垢でも飲んでおこうとするだろう、と。

 


山根会長とともに趣味に生きる男が格好良いと許される時代は終わってゆくのかもしれない。

 

進退はワシが決める

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本当に毎週毎週出かけないことには気が済まなかった”趣味人生”に疑問符が付けられたのは、今から10年ほど前だろうか?

もう”生活習慣”と言えるぐらいになっていたので、予定は仲間からもアテにされていた。

いやさ自分の年間スケジュールさえ趣味が支配していたと言っても過言じゃない。

 


が....ちょいとした理由でそれが出来なくなった。

最初は悶々とした。

我慢できないかも?とかも思った。

しかしながらどうする事も出来ない状態でもあったし、人間上手に慣れてもいくものだ。

そうやって、趣味とも、趣味の仲間とも、距離が出来た。

人生初と言ってよいぐらいに。

 


その際にあえて趣味をどうのこうのと考えてみたわけではないが...趣味に出かけなくなった分、他の場所へ出かけ、他の人と知合い、他のことを考えるようになってみたらば....

自分が趣味に没頭していた分、「全然知らない事を増やしていたのか?」なんてことによくよく遭遇するようになった。

 


よくよく遭遇するので堆積もしていく。

で、久々に趣味の仲間に会ったりすると....これまた恐ろしいほどに何も変わらないというか....

ある意味竜宮城にでも居たかのような....

 


そのあたりから、元のサヤには戻れずに居る。

ハッキリとした論拠はないのだが....戻らない方がよい....ような気がして....

 


ずっとそういった宙ぶらりんな状態のままにしてある。

それで別段問題もないとは思うのだが....

なんせ山ほどの道具がいまだ現存しているし、それを毎日目のあたりにしていれば、離れない部分もあるのだろうし、ってことはそこで無駄な時間も使っているんじゃなかろうかとか.....

なら、人生の方向転換を考えるにあたって....もう一段距離を置いてみようかとか、まあ、考えているわけ。

 


そこに丁度良い人物が登場している。

彼にとってボクシングはもはや趣味ではないのだろうけど....

グローブをつけるわけでもないし、リングに上がるわけでもないのに、JAPANのジャージを誇らしげに着用し、威圧感を増すかのようなサングラスを探しだし、車に乗るというのに帽子をかぶり、それじゃかえってよく見えないんじゃないかと思われるような革の椅子に座りたがる.....

そして話しっぷりはもはや普通の社会人の口調ではないほどに装飾を加えている。

まさに趣味の頂点の極致を体現していらっしゃる。

テレビに映る彼を皆大笑いしているんだけど....

彼のような出立ちの人は案外多い。

というかあそこまでのアピールは控えていても、内面的にその趣味の範疇の指向に洗脳されている(カブれて冷静さを失っているとも言う)人は居る。

 


若い頃ビーチサンダルに短パンでディスコの入場をよく断られた。

行き過ぎた趣味へのこだわりは、部外者から見た時に、異常に変であり、時として迷惑ということだ。

ましてや私も結構な御年になってきた。

ただでさえ変。

 


特定の趣味との距離は....

あえて意識すべきなんだろうと

話題の会長を見ているとそう思う。

本人の思っている”自分”と周りから見た”ご自分”は同一のはずなのに、周りから見たらば全然格好良くないのだから。

 


自分の場合は違う....と、オレは言えない...な。

残念だけど。

趣味と自分(2)

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”趣味”を持つことが悪いというわけじゃない。

趣味あったればこそ、前向きに生きていられるという人も居られよう。

が、人は人、自分は自分で、「今の自分」は果たして”趣味”あったれば幸せになれるのか?

ということなのだ。

 


では、前回の続きを考えてみよう。

今から考えれば”当たり前”のことなんだけど...

よほどにあぶく銭でもない限り、○○タウンの社長でもない限り、バブルもはじけたこのニホンで、趣味中心のようなアホな流儀が通用するはずはない。

父方の一家も、母方の一家も、日本が没落するとともに没落した。

当然にそれに影響受けてきた?自分も、自分の兄弟も、いとこ達も...周囲の友人達も皆没落した。

 


そんな中で、比較的手堅い収入のあった自分は珍しく生き残った方だ。

なので結果としては、趣味を手放さずに済んだ。

言い換えるなら....趣味を捨てきれなかった。

同じように趣味に生きる仲間も捨てきれなかった。

 


というか....人情が強かったからではなく、そういったルーティーンにどっぷりと浸かっていたので、生活習慣を簡単に変えられなかっただけ、と言うべきだろう。

そしてもう一つは....

仕事の腕前が無いだけに、唯一評価してもらえる長年続けてきた趣味御腕前を保持したかったのだろう。

そんなもの見ず知らずの他人からしたらば、どーでもいい、ことなのに。

 


社会人であるのに、

子供も居るのに、

毎週、毎週必ず遊びに出かけた。

その準備や後片付けをその他の平日にこなしてででも。

 


そのような趣味生活を中断させたのは情けないことに自分の意志ではなく家庭の事情だった。

13年ほど前か?

そこから7年ほどでその縛りは溶けたんだが...つまり....今から6年前より趣味の再開は可能になっていたんだが...

こんな自分でも....少し人生観が変わったんだろうか....趣味に没頭することを躊躇するようになった。

 


なので、そこから....は、思い出す程度にしかやっていない。

あれだけ行かなきゃ収まらなかった気持ちにも不思議とならない。

山ほど余ってしまった道具もあるので、「もう少し趣味をも」と自らにはっぱをかけたりすることもあったんだが....

やはり昔のような気持ちにはなれない。

 


では、一体何が楽しみなのか?と考えても、特別新たな楽しみが出来たというわけでもない。

毎日とにかく仕事をし、トレーニングをし、休日には庭の手入れをし、たまに仲間と飲みに出かける。

それだけだ。

 


矢沢永吉のサブウェイ特急の歌詞はこう。

♪~地下鉄には寂しい顔の奴らが座っている。

背中に暮らしを引きずりながら、寝ぐらに帰るただそれだけ~♪

 


社会に出る前の若い頃に強烈に影響を受けた歌手の歌詞だ。

ただもんじゃない。

働きアリ=寂しい、虚しい....を印象付けられた。

派手な趣味人に傾倒したのもこれと無縁じゃないだろう。

 


が、芸能人でもない自分が体験したのは、むしろアリとキリギリスだった。

当たり前のように働かないことには趣味どころか学費も出せないし、飯も食えない。

楽しい生活なんて夢のまた夢。

趣味は普通に”その次”でしかない。

年々差の開く現実....

結局、追い込まれるように.....自分も多少なりとも仕事をするようになった。

 


が、寂しく虚しいはずの仕事の場は、避けていたほどには....案外そうでもなかった。

仕事の関係で出会う人々は...全員がそうではないのだろうけど....みんな嫌々ながらも頑張っている...ように見えるようになった。

頑張りたくない?のに頑張らなきゃ....としているように見えるようになった....

そして当たり前だが、矢沢永吉にとっても、あの歌は...”趣味”じゃなく仕事の作品だということ。

 


かつて趣味に興じて鼻高々だった身内の顔を思い浮かべても....

悪いが....あまり素敵な顔じゃない。

自画自賛に酔いしれて歪んでいるというか....

少なくとも憧れたり、真似をしたい顔じゃない。

さほどに格好良いものではないのだ。

それが....昔はわからなかったんだろう。

そして....今は....多少はわかるようになったんだろう。

 


今週末は、このような心境がまともに現れてしまったような週末で、散々な目に遭い、只今治療中。

一つの....踏ん切りになっていくような予感がする。

 

趣味について(1)

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"方向転換"にあたって....この際に、考え直してみるべきことの一つに"趣味"があると思っている。

"趣味の扱い方"と言った方がよいかもしれない。

けっこう長い思考になりそうなので分断して進めていこうかと思う。

 


幸せだか不幸だかはわからないが、父方も母方も趣味人の一家だった。

なので...なのか?かといって....になるのか?わからないが、裕福ではなかった。

ここがミソなんだが....仕事より趣味を優先しているので、当たり前っちゃあ当たり前の話だ。

 


照れ臭くて....真面目な仕事の話をしない....んじゃない。

仕事にそこまで真剣じゃなかっただけのこと。

ヘタすりゃ朝から”趣味のこと”で頭が一杯。

5時になったら....いや、5時を待たずして....趣味に走る....ような家庭だった。

 


幼少よりそんな光景が当たり前だった。

そんな自分が本業より趣味に走るのは仕方が無い....という言い訳をしたかったわけじゃないんだが....

無意識のうちにも”本業”を軽んじる性質になったのは当然かもしれない。

 


両親含めて学歴もなく、職業もサッパリだったので、本業やら学業やらの自慢話がなかったからか....

もっぱら自慢話は趣味の話に終始した。

親戚も似たようなものだった。

 


教育?というか環境は恐ろしいもので、やっぱり親を肯定したがるのだろう。

一日は24時間、趣味に費やす時間が増えれば増えるほど、本業はおろそかにしていることを否定できるものではないのに....

むしろ本業を軽く扱えるほどの余裕で趣味での高評価を得ている彼らを認めていた。

 


....と言うことは....自分もそうであっても良い....ということになる。

 


”親”は自分達の自慢できない学業よりも....趣味の分野で”自分達が”いかに素晴らしい存在であるかを日々アピールした。

当然”趣味”なので金が必要だ。

つまり、趣味に金が注ぎ込める自分達を賞賛して見せた....ということだ。

あたかも仕事はそのための資金稼ぎでしかないように。

 


そのような環境にあったなら...

そりゃあ本業(学業)よりも、趣味や遊びの世界で認められるようになろうと....

そのために、学業よりも、資格よりも、軍資金稼ぎにバイトに明け暮れるようになるだろうに.....

実際....そういう人生になった。

金持ちじゃないので、働いて資金は稼がなきゃならなかったが....

”本気”じゃないので、仕事も気楽に楽しめた。

 


少なくとも....そんな精神で39歳ぐらいまでやっていた。

しかしながら”趣味”の成果とて時間を掛けたほどには大したもんじゃなく、当然犠牲にしていた”本業”の成果など見るまでもないものだった。

ただ....笑いの絶えない日常なら....それで十分....

だと思っていた。

 


そんな生活がいつまでも続けられるはずもないのに....