小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

次々出てくる自惚れ一族

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面白いものが出てきた。

こういったブログを始めた時の下書きだ。

ちょうど6年前になる。

 


いろいろなところに記録は残してあるので、6年前の生活を思い起こすことは難しくない。

生死を彷徨った子供の大怪我、進路、仕事の低迷...

非常に不安定な時期だった。

 


多分...その原因はどこにあるんだろう?どうすりゃもう少し明るい暮らしに戻せるのだろう?どこか間違っているんだろうか?

と、

”解明”の手がかりにしたくて、ブログを始めたようだ。

 


そして”はてな”に移動し、合わせて6年経ったものの...

相変わらず”同じようなこと”書いている...ということは...”同じようなこと”考えている...んだろう。

こういうのは「進歩が無い」というんだよな。普通。

 


が、強がるわけではないが、このもんどり打っているような6年でも、残した成果はある。

いろいろな面で達成できたこともある。

そこは自惚れではなく、認めてやってもよい部分だとも思う。

でなきゃ、もんどり打っていた意味もないというものだ。

 


...が、一方では結果を出しても解決しない”もやもや”は、続いているということ。

少なくとも6年。

それも何だか理解ができる。

実際思い当たることばかりだ。

 


もともとが思慮深いにはほど遠い生き方だった。

こんな頻繁に文章を書く習性もなかった(笑)

むしろ...こういうのは面倒臭いと思っていたし、この手の趣向の方々も苦手に感じる方だった。

 


が、恐らく”祈り”というか”願い事”というか”救われたい”というような”宗教的感覚”で”文章を書くこと”に頼り始めたように思う。

 


ブログでは、ほとんど「自分のこと」しか書いていないし、「自分のこと」しか考えていない。

まあ自惚れ屋なので仕方がないのかもしれないが、それでも、実際の日常では、当たり前だが”そうはいかない”。

ので、それなりに「他人のこと」だって考えている。

 


が、「うまくいっていない原因」が、「自分にあるだろうこと」は推測がついていたから、もう少し自分を解体したいと、文字で表すようになったようだ。

 


混沌とした6年など面白いはずがない。

しかし、「考え中」だから気が付けることもある。

「自分を知る」手がかりのような書籍との出会い。

旧友との会話の中であらためて知る「自分」....。

「これで良し!」としていたら、知ることの出来ない”自分”をこの6年では少しでも知ることができたように思っていたが....

一夜たってみても、昨日の思い付きは、今のところの最大限の「自分がうまくいかなかった理由」のような気がしている。

 


たまたま...昨日も父親に会った。

老いて自信が無いことも多いんだろう、相談されることは多い。

が....その相談の最中でさえ、相当に力量ある人をけなす。

また、自分の実績を誇る。

大した家系でもないのに、相当に自惚れた想像の家系を自慢する。

その上で....

「今後が心配だ」....となると、何なんだその自慢は...と...。

 


...かつては大家族で同居していた。

学歴を持つ者は一人も居ない。

いや、低学歴が悪いというわけではないが、学歴の取得をコキ下ろすこともない。

が、「あの人は○○大学を出てもあの程度だ」「先生ったって大学で何勉強したんだろうな...」

酒を喰らいながらそうやってコキ下ろし合う姿を毎晩見てきた。

 


”複数”...なので、あたかも「公の意見」のように子供の自分には浸透したのかもしれない。

だから...本当に勉強しない子だった。

いや、勉強することが格好悪い、進路なんか真面目に考えることは格好悪い、大学なんて苦労知らずのお坊ちゃんの行く所、と本当に思っていた。

たまたまに一校だけ受かったので、わが家系としちゃあ珍しい大卒にはなったものの、それさえも「ちょいと恥ずかしいこと」ぐらいに思って生活してきたぐらいだ。

 


学歴...を例に出しているが、学歴が問題ではない。

持ってないもの、身についてないもの、を「不要なもの」と決めつけてしまう「自惚れ」。

”持つこと”は出来ないにしても、”持っている人”を中傷する必要もないこと。

言葉で非難することによって自らの正当性を浮かび上がらせても、そんな効果は「聞きもしない」お利口な人には及ばないこと。

”自惚れ”を”自信”と言い聞かせてきても、いざという時には”自惚れ”だからこその”不安”が勝ってしまって勝負に勝てないこと。

等々....

 


見直してみたらば、自分だけじゃない。

我が家の衰退の根源のようにもなっている...

 


正直なところ、父方も母方も、そういや繁栄した大家族だった。

なので幼少の頃はどちらに出かけても賑やかだった。

が、気がつきゃ一家離散ともいえるぐらいに散り散りばらばらだ。

もう噂しか聞かないが、幸せになっている人も聞くことがない。

かつて...自慢大会が毎日開かれているのかぐらいの賑やかさだったのが....よけいにこっけいだ。

 


ぎりぎりといえばぎりぎりかもしれないが、自分は親戚はおろか兄弟とも仲良くない。

こういった家族と一緒の時間を過ごすのが苦手で、今を思えば違和感があったのかもしれない。

それがゆえに、この「自惚れ一家」の被害は”これでも”少なくて済んでいるのかもしれない。

ある意味、最後のジェダイならずも、生き残ることが出来ている最後の自惚れ屋なのかもしれない...

 


なんだか妙に納得できる二日間になっている。

人の欠点なんて、嫌われてまでも注意してくれるような三蔵法師のようなお方はそうはいない。

特にイキりたって、舞い上がって、気色ばんているような輩を利口な人はまともに相手にはしない。

だから...自分で気が付くまでは気が付かない....

 


少し思い起こしても....

あの時も、あの時も、そういやあの時も...

と、自信を持っている割(はず)には....踏み出せなかったこと....

言っているほどに結果を残せなかったこと...

何十年も生きてきて...全然大したことない”今”

 


その最大の原因は、

もう出来ているように

もう身についているように

もう備わっているように

もうわかっているように

簡単単純な努力しかしないくせに、一通りのことがわかっているように、勝手に錯覚できていた”特異な思考”にあること

 


本当に出来る者に対して「お前なら出来る」と後押しして出てくるのは「自信」

実力も身につけていない、その努力もしない者が「自分なら出来る」と欲望達成のために後押しするエネルギーは「自惚れ」

 

 

.....自惚れ屋では幸せにはなれないな。

自分の役割は、自分の代で「自惚れ一家」を断ち切ることのような気がしている。