「反省」の原点を辿れば...どうしても”過去”に至ってしまう。
さらにはデキの良い子でもなかったので、小さな頃から反省することだらけなら材料なんか山ほどある。
しかももう結構歳も取っており、全部包含するとキリのない話にもなってしまうわけだ。
が、それじゃ今後を考える資料の整理にもならないわけで、回想するにも無駄な時間が多い。
で、とりあえず思いつく”大きな境界”を考えるなら、やっぱりダイエットの為にジョギングを始めた時だろう。
「試合」とか「試験」とか「栄誉」のかかっていない地道な努力を人生で初めて「自分からやろう」となったからだ。
なので、一応「それ以前」と「それ以後」は、人生のとらえ方も対処も変わってきている。
しかし、最近多く書いているように、何事にも自惚れ屋なのだ。
改善や改良や変身とて、ものすごく”軽く”達成したようになってしまえる脳みそなのだ。
つまり...普通の人なら「まだまだだよな」という時点で「バッチリ身につけられたように」思えてしまうほどの浅はかさということである。
これは明らかに親父譲りだ。
親父は長男で一家の長ということもあり、比較的大家族であった我が家で毎晩のように自慢を吹聴していた。
今にして思えば「よくもそんなに自慢することがあるものだ」だが、大して身についていないものまで”出来る”と錯覚するなら」そりゃあ”毎日でも”自慢することが続くのだろう。
「内弁慶」...とは多少ニュアンスが違うが、「家族の中での自慢の姿」と「家の外の社会の中での実力」に乖離があるのも当然になる。
親父の”そんなところ”は大っ嫌いで、反面教師としてきたつもり...どころか...絶対に相反する人間性だと思っていたのだが....
ここんところ自分を探索して、この「浅はかなる自惚屋」の部分は、コピーかよ、ぐらい譲り受けている実態が判明。
これがDNAというものか?
これが遺伝というものか?
これが環境というものか?
一番「なりたくない姿に実はなっていた」という気持ち悪い事実に気が付いてしまっている...というわけだ。
そしてそんな親父は、恐ろしい事に、今でもご自分が「浅はかな自惚れ屋」であることに全く気が付いていない。
今にして思うなら、自分で言うのも恥ずかしいが、ジョギングを始める前は「やれば結構何でも出来る方でしょう。でも、ガツガツ一生懸命ムキになるのは格好悪いよな」的な人生で、そんなことを飲み屋で仲間にのたまっていたことも多かったような気がする。
そして、酒と自慢話のぐ~たらで太ったわけだ。
が、ジョギングするようになったからといって、人間性が急に変るものじゃない。
基本ぐ~たらなんだが、一旦火が付くと周りが見えないぐらいにはなるので、ダイエットの効果がみるみるうちに出てきたりすると...
「さあ市民マラソンに挑戦だ!」ぐらいにはなる。
そして絞れたカラダをどうだと言わんばかりに露出し、「俺も変わったよな」ぐらいにはまた浅はかに変われる....
やっぱり”性根”は変っていない。
それでも、「壁にブチ当たったとき」「不安を覚えたとき」には”行動(地味な努力)”をするような姿勢は出てきた。
それもあったからその後の幾度かの”壁”も乗り越えられてきたんだろう、とは思う...
って考えるとやはり、”それらだけ”では、乗り越えられなくなってきた頃に、新たな手段としてブログを書くようになったようだ。
そうだね。
そうやって考えると、そういや7年ぐらいだ。
そして、この7年、なんだかいつもギリギリだ。
なんとか立てた目標はクリアしてきたはずなのに、大した喜びもない。
謙虚になったから喜んでいない...のではなく、達成しても次の不安が出てきている。から、達成感に浸る隙もないといった感じだろうか...
そしてさらには....先行きが非常に困難になってきている。
これは恐らく年齢にもよるものなんだろう。
友人の中にも失職したり、リストラされたり、減給されたり、役職定年になったり、廃業する者も出てきた。
自分じゃまだまだ頑張るとしているものの、その意気込みが通用しない段階になってきているのをまざまざと見せつけられている。
不思議なことにトレーニングの負荷も比例している。
7年前がピークではないが、2年ほど前から回数が増えなくなってきているし、スピードも落ちてきた。
「無理をするなら」多少は維持できるかもしれないが、今はそこまであえて頑張らないことにしている。
故障したり、体調崩したり、トレーニング自体が苦痛で嫌になってしまうからだ。
「続けること優先」で、誤魔化しているとも言える。
”衰え”を自覚しても居るわけだ。
奇しくもだが...
2年前には「五カ年計画」にあった目標を、目標の歳までに、達成出来た。
そこでは一旦確かに満足したはずなのに...そこからは...毎月のように苦難が舞い降りている。
いろいろなところがうまく行かない。
あっちの水が漏れてきたのか?と押さえに行けば、こっちの水も漏れてきた...ってな状況が続き過ぎている。
正直「何でこんなことになってしまっているんだろう」...「呪われているんじゃないのか?」ぐらいの心境なんだが....
”人のせい”にしていても、解決にはならないんだろうな、と
仕方なく”自分のせい”を見つけて、解決しよう...ってなところにギリギリ留まっているといった日々だ。
毎日、解決のための”新たな手段”の登場をも期待もしているが、そんなものの気配ももちろん無い。
とりあえずは、仕事を、トレーニングを、...に加え....
簡単に「自惚れないこと」が登場してきたので...
それを続けようとはしている。
長年平家物語の祇園精舎のくだりを人生訓としてきたんだが...
今教えを請うべきは徳川家康かと....
人の一生は
重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり