別に野球が得意だったわけでもないし、プロ野球選手になりたかったわけでもないが...
清宮君のニュースを見るにつけ、どうして自分にはこういう道がなかったんだろうか?とか思ったりもする。
もともとの素質が違うとか、環境が違うとか、生い立ちが違うとか、両親が違うとか、そんなとかとかは解っている。
別に人気者になりたいわけじゃない。
ひのき舞台を目指そうとしなかった自分、
いやさ、どこがひのき舞台なのか知らなかった自分
いやさいやさ、ひのき舞台よりも日陰者に興味があった”昔の自分”が忌まわしい....
が、結局のところ....
「ああしておけばこうなっていたかもしれないな...」
「こうしていたらこっちの人生があったかもしれないな...」
などと思ったところで....
”過去のその時点”では、それを選択しなかった自分が居たわけだ。
もしくは決断せずに流れに身を任せるという”選択?”をした自分が居たわけだ。
細かなことまで含めて、そういった選択の連続の結果が「今」だ。
都合のよいところだけ切り取って、「ああしておけば....」と考えてみたところで「現在の自分」は変わらない。
仮に....
もっと”上出来の過去”なら...上出来の過去...であったとしても....
それはそれでどっかで傲慢にまでなっていて...案外今頃には「おごれる人も久しからず」となっていたかもしれない。
目標を掲げ、遅まきながらも「努力が必要なんだ」と思うようになっているのは、面白くないし、楽しくもないし、重苦しい毎日なんだが...
「おごれる人も久しからず」...よりはマシなのかもしれない。
それだって...
「やるべきことをやっていなかった」
「気が付くべきことに気が付いていなかった」
という”負の過去”があったゆえに....
「昔より多少は考えるようになれた今」となり、「”気が付かなかった昔の自分”に気が付くようになれて」いるのかもしれない。
なんだかややこしい話だけれども...
要するに...”昔に”
気が付いているものならば”今”の自分にはなっていないし、努力しているものならば、”今”こんなことを考えてはいないということ。
そもそも...
”願望”剥がして嫌な面まで”昔の自分”を振り返ってみるならば...
相当にヒドい....
ある意味....
こんな”今”でさえ、上等だとも言える....
人生よくぞこの特俵で残っていてくれている....
とさえ言える。
そんな分際でありながら....”昔のうちに”
「気が付いていたら」
「もっと努力していたら」
今以上....という推測は...ただの”100%実らない空想”に浸っているだけのことなんだろう。
過ぎてしまった”努力すべきだった日々”のことを考えるより、カーネル・サンダースや安藤百福を見習うべきだ。