”実力よりも運が鍵を握っている”とは書いてみたが...
ちょと違うな。
運を味方につける行為の影響は大きいだろうな、と言い直すべきか。
よくある”風水”とか”幸せカラー”とかの研究とか”方角にこだわる”の話しじゃない。
身勝手な喜怒哀楽に任せない。
といったところか。
代表格はいつも言うように、自分の親父だ。
大嫌いだったし、いまだに嫌いだ。
こういう話をすると「なんて親不孝な」という人がすぐに出てくるが、世の中には「同情できる親殺し」が実際に起るわけで、何も知らない人の意見なんざ聞く気もない。
自分の親を見て「こんな大人だけには絶対になりたくない」と思って育ってきたのだから、その責任も自分で取る。
ただ...
哀しいかな、”環境”とか”DNA”とか”遺伝”とかの影響は避けられないのもあるようだ。
”大嫌いな部分”が似てしまっていたりもする。
自分を振り返らなかった若い頃には気が付かなかったが、今はわかる。
そんな行動を取るべきじゃないのに取ってしまう。
そんな感情を抱いてはいけないはずなのに抱いてしまう。
冷静に考えれば、事前に対処できたはずなのに、感情に任せて失敗している。
誰のせいでもないのに、その失敗で怒り狂う....
まるで”親父”だ....
運が逃げる...
ということではないと思う。
ただ...
そんな自分勝手な喜怒哀楽を蒔き散らかすヤツは...
早い話が、信頼されない。
尊敬もされない。
面白がられても本当には好かれない。
安心されない。
できたら距離を置きたいと思われる。
仲良くしていたいとは思われない。
結果...
本人気づかずの孤独になってゆく....
だから...
賑やかなところを見つけると...積極的に割り込んでくる....
そして...さらに...人が離れてゆく....
昔は特に、漫画でも、ドラマでも、直球一本やりのわかりやすい”主人公”が人気のあった時代もあったが...
それは「距離を置いたフィクションの物語の話」
現実にそんな奴が隣に居るならば、あまりにも自分中心で迷惑な存在だ。
自分の親父は今現在でもそんな態度で、しかも自分自身はそれを「正直者の少年のような性格」と思っているので、まともな人は誰も相手にしていない。
...そういうことだ。
世の中「自分の力だけで」成功できることはそれほどない。
いろいろな人の助けあって成せることがほとんどだ。
喜怒哀楽は赤ちゃんなら大袈裟でも可愛いらしいが....いい年こいた大人は”少年のようで”では済まされないだろう。
それは...余りにも自分に甘い。
自分にはそんな甘いDNAが潜んでいる。
それに気が付いたのもごく最近。
そして、そこまで咎めたならば自然な振舞いなんて出来なくなるんじゃ....と、それが親からの脅しだ。
親をみくびらないように、親を嫌いにならないように、「喜怒哀楽は我慢することなく思うままに表現するのが人間らしいのだよ」と、言い聞かせてきただけのことだ。
よくよく考えれば母親も非常に激しい感情の持ち主だった。
喜怒哀楽を抑えるのは、別に作為的なことでもないし、功利的なことでもない。
むしろ、自分だけの喜怒哀楽の発散は、誰も喜ばない。誰も嬉しかない。
気が付いたのが最近だからまだまだよくわかっちゃいないが....
そりゃあ周りを見回して、それ相応に自分の感情をコントロール出来た方が、出来ないよりも周囲は穏やかで居られる。
ましてや、怒られるいわれもないのにイライラされた時の不愉快感を感じた時には....
これは”運”ではないのかもしれない。
そしてなんだかこんな聖人君子のような生き方は功利的で気持ちが悪いように見えるのかもしれないが...
心配せずとも目指したところで猥雑な人間が完璧に演じられるわけもない。
ましてや”自分”だ。
が、嫌いな親父から本当に精神的にも距離を広げようとするならば
違う人間であろうとするならば、
そして、自分の”次なる目標”を達成しようとするならば
身勝手な喜怒哀楽は、その一瞬手前で「考える」べきだろう。
特に”怒り”は。
今日もたまたまそんな場面があった。
内心いつ切れてもおかしかないな、とも思っていたが....
不思議と我慢が出来た。
その相手との付き合いは古いが....「やっぱり大人になったねえ、ものすごく我慢強くなった...」と評していただいたんだが....
そうじゃない。
「次なる目標」を是非とも達成したいだけだ。
その副産物として、多少でも大人になれるのなら、それも悪いことじゃないし。