小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

祭りの後

f:id:okutavianus:20180318180056j:plain

 


断舎離というにはおこがましいが....

7年程前からだろうか、妙に身辺整理をするようになった。

 


それは度々記事にも書いてきているんだが...正直、老後の準備、には早すぎるとは思ってはいるものの、昔よりはやっぱり色々見えてきていて....

”見えてきて”いる...というのも、やっぱりこ”れから先が”、であって、

「もう使わないだろうな」「もう似合わないだろうな」...に、

希望的観測が無くなったことだとも思っている。

 


いや、それほどに落胆はしていない。

むしろ片付いて清々している部分も多いし、圧倒的に”体育会系”だったので、それを捨てる代わりに、そうじゃない世界への興味は膨らんでも来ている。

 


片付けている最中にもニヤリとしてしまったりする。

「よくも今まで持っていたもんだ」とか...

 


それから7年なので、結構捨てた。

流石に足らなくなって買い足したモノもあるが...

以前と同じような見立てではやっぱり買わない。

 


妙なものだが、7年前以前を登山とするなら、7年前からは下山ぐらい景色が違っている。

いやちょっと比喩が悪いな?

7年前以前を祭りの前とするならば、7年前からは祭りの後ぐらいに風景が違っている。

そう、祭りの後の後片付けをしているというところなのだろうか?

少し寂しい気もするが、荒涼としているわけでもない。

淡々....か?

 


かといって7年前に祭りがあったわけでもない。

何もない。

はっきりした現象など何も起きてはいないし、きちんとした境目もない。

盛り上がった形跡も無い、が....

大体そんな頃から”想像できる風景”が変化をしてきている。

 


”そんな風景”に抵抗したりもする。

その結果が今のギックリ腰で、これまた非常に治りが悪い。

これも7年前とは大違いなのだから、余計にそう思わせる。

 


この2日間の休みも少し安静にしていたかったが、時間がもったいなくてあれやこれやと所用をこなした。

今、ひと段落したところなんだが....

こうなると、不思議とさらに整理をしたくなる。

早い話がこれまでのモノを捨てたくなってくる。

変な話、捨てるモノを見つけるために、これからの人生を瞑想したくなってくる。

それはあたかも、暇になるとは死ぬ前の準備を思い出しているような錯覚にもなる。

死に急いでいるつもりは毛頭ないんだが、無意識のうちに老いる準備でも始めているんだろうか?

 


今残されているモノ達は、7年前からの整理で生き残った猛者達だ。

さらに簡単に整理されるような輩達ではない。

でも、やっぱり必要ではなくなっているモノがもうある。

あたかも7年でさらに老化が進んでいるという証のような気分にもなる。

 


自分の人生に”祭り”があったようには思えないが、”祭り”を待っていた、”祭り”を期待していた時期はあったと思う。

それが多分7年前までの”祭りの前”の人生なんだろう。

そして...残念だけど盛り上がりのわかるような祭りはやって来なかった。

やって来ないまま....祭りの時期は過ぎ去った。

そして....7年前からは「祭りは来ないままに過ぎ去った」ことを確信して、後片付けに入った....

ということなんだろう。

 


不思議だし、よくわからないが、自分じゃそんなにも嫌な気分ではない。

一つずつ、一つずつ、丁寧に片付けていくことに、少し充実感もあったりする。

捨てることで”来て欲しかった祭りへの未練を断ち切った”ような清々しい気分になったりもする。

 


なんだろう....

下山にしろ、祭りの後にしろ、勢いのあった時代には、たまらないほど寂しく虚しそうな光景しか想像できなかったんだが....

近づいてみたらば、それはそれで味があるというか、ま、嫌だと思ったところでどうしようもないというか、

それなりの過ごし方があるんじゃないかと....

多分...期待してるから、そこでは登山の用具や祭りの前の気持ちは要らないだろうな、と、整理したくなっているような気がしている。

 


あっ、今日はそう考えただけで終わってしまいそうだ(笑)