小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

書き直し「努力」って...

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ごいさんのコメントに対しての返事が、急いで書いたせいかどうにも中途半端な気がして....

ちょっと書き直しします。

 


「努力」って...その大切さは、習字のお題で何度も書かせるほどに...”大人たち”は言ってきてくれたはずです。

が、残念なことに、はねっかえりだったからか?聞いてなかったのか?アホだったからか?「俺は他人よりも優れた能力を持っている」と勘違いできるDNAを持っていたからか?

ものすごく軽視していた時代を送っていたのは確かです。

 


カンタンに言ってしまうと、5分でも努力したらば一日中努力していたかのように思えたり....

徹夜でもするなら一年中努力したと思えたり....

一カ月も継続できたなら、生涯やり続けてきたように思えたり....

そんなところがありました。

 


なので...人の「努力」さえも軽視するところがあって....

というか「努力」の扱い自体をナメていたのでしょう。

頑張って結果を出せない他人より、頑張らないのに結果を出せる自分が素晴らしい!.....

と、思う人間でした。

 


人間は急には変わりません。

これは俺、間違っているな...と気が付いてきても...沁み着いてしまっているものはなかなか落しきれません。

人生遅まきになってようやく「努力」の大切さが頭では理解できるようになってきても、「行動」や「習慣」は変えられない....

つまり何も変わらない....そんなところでした。

 


が、フトしたことでささやかな「努力」の習慣が始まりました。

受験勉強でさえせいぜい3カ月程度だった自分にとって一年を超える継続は初めてでした。

しかし結果は....期待にはほど遠いものでした。

ここもカンタンに言ってしまうなら....

「努力」は簡単には結果を生まない。

ということになります。

 


思い通りにならないのですから不満は募ります。

おかしなもので、不満を解消するがために「努力」するようになったから、”不満”が募るようになったわけです。

今まで軽い努力とは言えないような”工夫”で軽い結果を出してきた自分にとっては、おかしな心境がはびこります。

それぐらいからでしょうか?

「努力」することや、「努力」の成果を長い目で見てみようか、と、思うようになったのは....

 


今からほぼほぼ20年ほど前ぐらいからでしょうか?

「努力」とはそんなお付き合いです。

 


いまだに大した「努力」はやっていません。

やはり残念ながら小さな頃から沁み着いてしまった性質というのがあるようで、相変わらず苦手なのでしょう。

が、けっこう継続しているものはあります。

それがどれもこれもなんですが....

一時はその成果を感じつつあったのに....

最近ではどれもこれも大したことなくなってきて....

というところなんです。

 


なので自分にとって「努力」は、案外はかないものになっています。

 


ただ....

どんなこともそうだと思うのですが、机上の空論は机上の空論です。

いくらコンピューターの精度が上がっても、実際にやってみないとわからないことは世の中の99%ぐらいを占めているんじゃないでしょうか?

「努力」を体験すると、それが素直に理解できると思います。

妙な言い方ですが、成果の出ない「努力」を継続してきたものにしかわからないことがわかるようになると思います。

それが意味のあることなのか無意味なことなのかはそれぞれの人生観にもよるでしょう。

が、私の場合は、「努力」の成果そのものよりも、成果が出るのか出ないのかもわからないような「努力」を継続してきたものにしかわからないことがわかる、ことに意味はあるように思うようにはなっています。

 


それがコメントへの答えです。

一年継続した「努力」でさえ成果が出ないものなのに、たったの一日頑張ったぐらいで成果を期待するもんじゃないし、それを「努力」と言うべきではないだろうと。

 


と、まあ、偉そうに書いていますが、何度も言うようにあえて、こんなことをブログに書いているのは、自分がそもそもの勘違い人間だからです。

少しばかり頑張ると、一年ずっと頑張ってきた心境になるのは自分です。

大して頑張ってもいないくせに、結果が出せない時に限って残念で、「頑張れたことだけでも意味がある」と自分を慰めているのは自分です。

ただ...そういうことが....

多少はわかるようになってきたことが、「努力」をするようになった、つまりは「努力」の大切さを軽視しなくなったささいな「成果」なのかな、とは思ったりします。

 


私は20年ほど前にようやく始めた「努力」なのですが、それまで何十年と軽視してきたわけで、その間生真面目に努力をされてきた方々も大勢居るわけです。

”その差”に気が付いたのは、20年前ではなく、10年ほど前です。

不幸にして報われていない方も居るようですが、でもやっぱり私とは大違いです。

つまり....努力するようになってからじゃないとその「努力」の差にさえも、気が付かない....と、まあそういうことなんだろうと思います。

 


今の私がうまく行かない毎日なのは、努力不足だった日々の延長を生きているからなのでしょう。

後悔はしますが、深刻には悩まないようにしています。

どうにもならないことなので(笑)

 


「贖罪」と言うのでしょうか、人間ピークに向かって行く時は、力任せの理屈で自分をもねじ伏せることも出来るようですが、人生の峠も過ぎるとマイナスも素直に受け止めた方がスムーズになるようにも思います。

 


徳川家康の遺訓

 


人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。

勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。

及ばざるは過ぎたるよりまされり。

 


は、まさに下り坂だからこそ見えた境地であって、家康といえども上り坂の若い頃には見えなかった世界観だと思います。

 


私には当然ながら家康ほどの能力も努力も精神力もないので、重荷だけが目立つのでしょうが、家康が言うように”このような状況”は死ぬまで変らないようです(笑)

「そうじゃない。楽しく愉快な後半もある。」というような人も居られるようですが....

まあそれは嘘か、誇張か、願望か、

いずれにしたって目を背けているという状況なのでしょう。

 


私は家康の足下にも及ばないのですが、せめて現実と向き合って生きていきたいと、

そう思っているだけのことです。

 


相変わらず毎日うまいこと行っていません(笑)

でも、それが現実なので仕方のないことです。