小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

みみっちい欲張りの話

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”心の専門家”のような方々は、「あまり自分を分析したり、突き詰めるようなことは”やらない方が”よろしい」....と言うんだけれども....

サーシャコーチの居ない大坂(自分)としたらば....

いやさ、サーシャコーチ(自分)も大坂(自分)も兼用して生きている自分からしたらば....

選手(自分)の心理状況や判断基準をコーチ(自分)が「知っておくこと」は、成功に導く上で重要なファクターになるんじゃないのだろうか?

 

 

いや、さほどに大袈裟なことでなくても....

「どうして俺はそう考えてしまうんだろう」...やら

「どうして俺はそういう行動をしてしまうんだろう」....ということを”普通に”やっぱり知りたくなってしまう。

ゆえに”自分自身の探求”なんて大袈裟なことじゃなく、”それ”知ってないと自分のコントロールもうまく行かないんじゃないの?と思うんだが....

 


そんなところから....自分の人生を振り返ってみても....大きくブレてきた割には....実に”中途半端”な結果に至っている.....と分析している。

決して望んではいないのに...

が、それは見方を変えるなら....上手に”危険水域”を回避してきて平平凡凡な日常に到達している....という見立てもできるんじゃないかと思っている。

いや、それは多分自分だけじゃなく、多くの人の特徴で...それを”平凡”と呼ぶような気がするんだけれども....

 


相反する性質の共存とでも言おうか....矛盾した性質の共存を保持することで人は中庸になっている。

いや、中庸を保つことが出来ている?

 


例えば隣の芝生なんか青く見るべきじゃないと戒めつつも....本音では非常に青く見えてしまっていたり.....

無駄遣いはもったいないと口うるさく言っている癖に....そんな自分を妙にケチ臭く感じる日があったり....とか....

が....”ゆえの”中途半端でもあるわけだ。

 


いちいちそれらの境界線なんか考えて行動してはいないのだろうけど....

”それらの基準”...は曖昧どころか、”基準”すら自分自身でわかっていない場合が往往で....そんなアバウトなところからの”判断力”だったりすれば.....

そりゃもう自分の中で正誤の判断も、善悪の判断も、行き当たりばったりとさほどの違いはなく、それじゃ適切な結果には辿り着けないはずだよな、とか....

 


その上で、一つ自分を擁護してやるならば....

”矛盾の存在”というよりも、「一方に偏りたくない」というのはあるのかもしれない。

が、それは....非常に”中途半端”にも陥りやすい気質だとも言える。

あっちも良いけど、こっちもね....

という気質なのだ。

 


しかも....「こっちだけ全部」じゃない。

一つずつでいいから、あっちも、こっちも、そっちも、たくさんの全部の種類が欲しいのだ。

「いろいろな幸せが欲しい」

と言い換えられるのかもしれない。

 


みみっちい欲張りの根性だ。

 


しかしながら、残念なことに振り返っても思い当たるフシが少なくない。

勉強が出来る子と思われたい時もあったなら

スポーツが出来る子と思われたい時もあり

やんちゃな子と思われたい時もあったれば、

スマートな子と思われたい時もあったりして.....

同一人物の成せる業かと思われたりする....

 


仮に、相反する能力であってさえも、欲求が出てきた時には....

「全てのこと」で合格したい.....と望んでしまう性質だと言うことだ。

ただ....救われる?のは、全部世界一になろうというような野望はないということ。

 


でも....部活から帰って疲れ果ててでも勉強した記憶はない。

素直に眠ることを優先してきた。

あれもこれもと望む割には、それほどには頑張りたくはないと.....

つまりほどほどの頑張りで到達できる程度でいいと....

しかも....本当の実力を身に付けなくとも....”思われる”程度が身に付きゃそれでいいと.....

 


「エエーッ。そんな自分嫌なんだけど....」

と思ったところで、分析の結果は....

それが自分。

と言うことだ。

 


事実ではない自分の希望通りの気質の自分は”願望”と言う。

それは分析なんかしなくても、夢の中でも創作できる。

そして....何の役にも立たない。

そんな時代が長過ぎた。

 


されど今更ながらに中途半端な自分から生まれ変わろうとしたところで....(ってかもう無理だ)

中途半端な自分を満足させる努力の方が現実的だろと。

いやさ百歩譲るなら、中途半端な自分を満足させてから中途半端な自分から脱却しても遅くはないだろうと....多分、その頃には死んでいるんだろうけど(笑)

 


そういえば....

かつてはもう少し高み、上を、多くを、大を、目指していたようだ。

そのような残骸がいくつもある。

が、それらは現在の自分には分不相応で、正直重荷になっている。

いわゆる”大き過ぎた俵”というやつだ。

 


かつてはそれでも”我慢した末のサイズ”だったのに.....

それが、今じゃ大き過ぎるとは....

それぐらい”中途半端の間”でも揺れているわけだ。

そりゃあ中途半端過ぎるぜよ、と。

 


中途半端な人間のくせして....

目標だけが立派だなんて.....目標だけが格好いいなんて....

そりゃあ達成は無理というものでしょう(半笑)

 


やっぱり目標も中途半端な人間にふさわしい中途半端なものでないと.....みっともないんですが....

 


自惚れてはいけない。

けど、さぼってもいけない。

立派なことも言えない。

これもまた実に中庸。

でも、自分はそういう人間。

そういう結果を残してきてしまっている。

それが嫌だから、あの時こうだったら....とか、この時こうだったら....と想像するんだが....

後々後悔する”中途半端な”結果を選択してきたのは

自分だ。

 


そんなところなのだ。

謙遜でも自虐でもなく、事実がそうなのだ。

であるならば....

「そういう自分だ」という確信からスタートした方が成功への精度も高い、ということ。

そう、当然ながらにその”成功”も中途半端な成功なんだけど(笑)

 


いいじゃねえか、中途半端な成功でも。

極端な”失敗”よりは。

 


見栄張っちゃいけない。

張りたいのなら、言葉じゃなく結果で見せれば良いだけのこと。

中途半端な目標すら達成できていないくせして大きな庭の芝生なんて気にしてる場合じゃないということ。