「下り坂」人生の名付け親は五木寛之だとばかり思っていたんだが....
「下り坂」ではなく「下山」だったことを初めて知った....ぐらいに実は五木寛之の思想も知ってはいない。
たしかに.....「下り坂」と「下山」は違うと言えば全然違う.....
まあ....自分の人生がピークアウトをしたと確信したので、その後の人生は?と問われるなら....
まあ「”下り坂”のようなものなのかな?」というようなイメージが浮かんだので、”そのまま”使用し続けているだけのことだし、思いつきのようねなネーミングでもあるので、ピタっとフィットしている感じもなく、なんか「別の言葉」はないものかと....
ずっと探してもいるんだが.....今のところサッパリ見つからない。
ただ....ここで「下山」と言い換えてしまうと....まんま「真似」になってしまうので、そこはちょっと避けたいかな?
「下り坂」などと言うと、自称ポジティブ派の人々らから....「そんな...人間気持ちだよ、気持ち。自ら諦めてしまったような....若さを見捨ててしまうような....その方がよけいに下り坂になってしまうんだよ。」
というような説教を受けやすい。
が、そこが嫌なのだ。
悪いが....ここまでのところ....「気持ちだけ説」の人間よりもはるかに結果も若さも保っていると思っているし。
何度も言うが、俺が剛速球だと思って投げているボールは、「もう剛速球ではない」ということ。
「これまでと同じ生き方ではうまく生きられない」ということ。
それを確信し、覚悟をすべきだと自分に言い聞かせているだけのことで....
「ネガティブに生きる」などとは一言も言っていない。
柳の葉の高さは変わらなくても、自分の跳躍力が下がる一方の年齢になれば、届く可能性はさらに低くなるのに、「同じ努力」で何の結果が出せるのか?
それよりも違う方法や違う目標にした方が、結果が出せるんじゃないのか?
そう言っているだけのこと。
ただ....それを「下り坂」という一言にしてしまうと....誤解されることが多いのだ。残念だけど。
案外欲深いのだ。
まだまだ全てを諦めたわけじゃない。
下りながらも....
下山しながらも....
結果を、成果を、幸せを、実現しようと企んでいるのだ。
勇気だ、国家への忠誠だ、万歳だ、と本当は届きもしない、在りもしない夢や願望に向かった....神風特攻隊のようになるつもりは毛頭ないのだ。
私は登山の経験が無いのでよくわかっていないんだが....
「勇気ある下山」
は非常に重要な思考だと聞く。
ポジティブな決断だとも聞く。
危険な登山じゃあ、無理な状態で頂上を目指すことは「死」を意味するからだろう。
少なくとも、直後の「死」を避けたいのであれば....
つまり、一応でも「生き続けよう」とするならば....
ポジティブな選択は
「下山」すなわち「下り坂」。
登山じゃなく人生にだってそういう場面は必ずあるということだ。
なので、自分じゃ「下り坂を行こう」というのは、より積極的な選択、作戦であって、全然ネガティブとは思っていない。
少なくとも....「気持ちだけでもポジティブに」
なんて言ってる奴らよりは幸せな結果を残してやろうと。
そう思うからあえて選んでいるんだと、
思っている。
「気持ちだけ」なんてどうにでも誤魔化しのきくような曖昧な結果なんてそりゃあ努力の成果の指標にはならんだろ?
「よくがんばりまちたでちゅねー」とママに言ってもらえば満足なのか?
いい歳こいて。