さてさて本題に戻りましょう。
まだまだ戒めていかないと....油断してたらずぐに谷底に落っこちまうので。
.....パンツ一丁は平気だったけれども....あまりにも着飾ることは苦手だった。
まあ、キザというか....格好つけというか....そう思われるのが嫌だったというところ。
が、それでも”若さ”というものはえらいもので、いろいろと誤魔化してくれた。
若い頃はシミもなく、剥げもなく、姿勢もよく、
多少みっともなくともどこか溌剌として見えたりしたんだろう。
が、現在じゃあ「なんじゃあコリャァ」と寝起きの自分を見て驚くほどに.....過去の自分はほど遠い。
同級生でも「ずい分若く見えるね。羨ましい」などという世辞に見事に乗って、セサミンのCMでも請け負っているかのように毎度若造りしてくる奴も居るんだが.....
それがおだてであることに気がつかないのが恥ずかしい....そしてその同級生である、自分も。
「気持ちは少年のまま」を自負するならもう最悪だ。
少年時代から進歩をしようとしなかったアホで怠け者だということを自慢したいのか?
そりゃある種の逃避だ。
そう。
ただでさえみっともないのだ。
でも....「今更格好つけるのはなぁ....」などと照れながら格好つけたとしてももうご安心。
”格好つけているようには見えない”から。
それぐらいにもう「格好よくないから」(苦笑.......)
むしろ....最高位で「割とちゃんとしているなぁ」という程度。
先述したショーケンの代表作である木暮修は格好の悪いシーンでも格好良かった。
もちろん”演技力”ってのもあるんだろうけど.....昨今のショーケンを見ていれば....
やっぱり”若さ”は偉大だ。
アンチエイジングでは誤魔化しきれないものがある。
いいや、そんなもので誤魔化せるなら「若い時代」は不要になる。
そんなわけないじゃん。
今の自分がその「若そうなもの」にあやかりたいと思うのは大間違い。
「格好いい」を選んだつもりでも....「不釣り合い」は十分に予想すべきこと。
”着崩す”とか”渋い”とかはベースが若い、幼い、きれい、だから成立する。
ベースが違えばそれらは....だらしない、しんきくさい、下手すりゃ...汚い。
....になるだけと思ってもう見切りはつけるべき。。
格好いい⇔格好悪い
の分疑点が来たときは
必ず
「格好いい方」
を選ぶべし。
”着崩す”とか”渋い”が似合わないように....”フテ腐る””慌てる””興奮する”も、もう似合わない。
ファッションだけじゃない。
姿勢も、会話も、考え方も、目つきも、口調も、場合によちゃあ筆跡も。
いたずらに歳を取ったんじゃない。
努力して大人になってきた....はずなので....
人様にお見せするのは「若さ」じゃなく、「大人っプリ」の方じゃないのかと....
”全ての場面”に言えることだと思う。
そして....かく言う自分は全然出来ていないし、ヒドい場合にはスッカリ忘れてしまっているので、都度都度言い聞かせなきゃならないので案外忙しい日常なのだ。