小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

原点

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珍しい方から突然に電話があった。

用件は大したことがないものだったが....久しぶりだったこともあり、少しの間話を進めた...

 


特別に今の状況を吐露したつもりはないのだが....なんとなくにわかるのだろう...

励ましのような、ヒントのような、そんな言葉を二ついただいた。

 


一つは...

「楽しくない時のが多いのは普通やで、楽しい時が多かったら、楽しいことの有難みはわからんやろ。」

というもの。

その通りだろーけど...楽しい時のが多い方がそりゃいいよな...と。

 


もう一つは...

「迷った時は原点に戻れ」と...

 


意味はわかった。

わかったが...じゃ、俺の原点って何?どこ?どれ?.....

 


本当にわからない。

いや、そんな「自分の原点」なんて考える必要もなかったのか?考えたこともなかったし...そんなことに思いをはせるぐらいなら、少しでも明日の、来年の、将来の、不安を削ることを考えることに時間を使うだろうにさ....と。

が、

言われてみれば、俺の原点って何?

せっかくの良いお言葉いただいても、戻る原点すら持ち合わせて居ないときは...

一体どこに戻れば良いんだろうか?と....

 


昨日は別の友人からも久々の電話があった。

大きな屋敷を売って小じんまりした生活にするらしい....

 


はてな」で書くようになってからどれぐらいになるんだろう?

4,5年か?

一生からすればわずかな期間なんだけど...

それでも購読させてもらっている方々の人生もずっと同じという人は珍しい。

むしろ...自分よりも変化していらっしゃる方のが多い。

 


相次ぐ大企業の不正会計や偽装データ問題、教育関係なのに、ですら補助金詐欺や違法入札...神様に通じるはずの神社や大相撲までもがキナ臭い不祥事だらけ...

「いざなみ景気を超えるかもしれない」ぐらいの好景気は真面目にやってちゃ感じられないってことなのか?

それとも....

俺には原点すらわからないのだから、道が見えないわけなのか?

 


マジに思う。

原点ってどんなもの?

どこにある?

何十年も生きてきて...

それが無いから俺は空振りだらけなのか?

 

相変わらず毎日面白くない。

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が、自殺したいほど....というわけでもない。

というか...自殺なんか考えなくてもそう遠くないうちに死んでもおかしくない年齢だというのもあるが(笑)、多少の喜びぐらいは時々ある。

....ま、それで、”普通”なのかもしれないと....寒空に凍えている。

 


孤独感は年々増している。

自分の置かれている立場というのもあるが、あちらこちらで自らそんな位置に居場所を置いているような気もする。

 


寂しいっちゃ寂しいが...

群れているからの虚しさや非力さやはかなさってのも嫌なんだと思う。

割と幼少の頃からそんなところがある。

人との関わりの後に後悔をすることが少なくない。

それぐらなら....と、防御反応のように、少し離れたところに身を置くことに安心するのかもしれない。

 


スポーツの中では球技が身体能力には合っていると思っていたが....

チームスポーツが多く、精神的には無理があったのかもしれない。

今からなら...チームスポーツはやらないだろう。

 


実際にはそれほどに孤独じゃない。

家族も居れば、職場もあるし、友人知人との集まりもある。

が、その割には独りで居ることが増えていると思う。

望んでいるとは思えないんだが....あまり積極的に人と関わろうとはしていない....ように思う。

 


休日など、誰とも話さない日もあったりする。

孤独な老人死は嫌だな、とは思うが、けっこうまっしぐらなのかもしれない。

かといって友達に電話をかける...ということもない。

話すことがない。

というか楽しく話せるネタがない。

 


...という日常の割には忙しく、ブログも全然書けていない。

まさに不安と葛藤と孤独の中で、時間だけが過ぎていって...

気がつきゃ12月に入っていて、恒例の「休みのない月」になっているわけだ。

まあ今年も31日の「ガキ使」まで、休みはないだろう。

 


何のために生きているのか?

そういう疑問を考えることもなくなっている。

ともかく「明日も生きている」という前提で今日を生きているので、寝るまでには「明日の大体の予想」を立てておく。

おかないと....しっちゃかめっちゃかで、その解決の多難さで生きているのが嫌になるから。

いっぱいいっぱいだ。

もうこれ以上の無理難題を抱えたくない。

陽だまりでノンビリ過ごしたい。

ま、そんな望みも当分無理なんだろうけど....

 


五木寛之だったかな?

「下山の時代」

否定とか賛成とかの問題じゃないだろう。

日本も自分にも「下山の時代」が訪れているんだと思う。

道が下っているのに、そりゃ上ろうとするなら、空回りにもなろう。

そこの覚悟が自分にも日本にも無いようだ。

 


諦めきれない

 


そのエネルギーだけで生きているような気がする。

「前の五カ年計画」を達成した時に、すぐに「今の五カ年計画」が出てきたのは、”いつまでも前向き”だからじゃない。

後悔や未練や欲望が多過ぎて、「たったの五カ年分」じゃあ埋められないんだろう。

もう辞めてしまいたいほどにしんどいのに....

「もっと」「さらに」「より」「もう一つ」....とついつい自分を急き立てるのは....

健全な向上心じゃなく、過去への恨み、生い立ちへの恨み、自らへの恨みの穴ぼこが、埋まりきらないほどに広く、深いのだろう...

 


まあ、さほどに深刻に考えているわけでもないし、

さほどに高度なことを追い求めているわけでもない。

ただ....欲の深い男だと言うことだけだ。

 


いつこうなってしまったんだろうか?

かつては...

雪山や海岸で見た目瞬間のヒーローになれたのだったなら、

もうそれで十分満足。

金や仕事や名誉や地位も何も必要としなかったのに....

 


”歳の取り方”を学ぶべき時が来ているのかもしれない。

「俺」は?

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相変らず毎日面白くない。

面白くないが、人生捨てきれないので、それなりの事はやっている。

この先の希望とてあまりない。

いろいろな反省をしてきて、もともとが”出遅れスタート者”だという認識はあるので、人並ゴールなら上出来だとは思っているが、そこに至れるかどうかも定かじゃない。

日馬富士のように暴れたりはしないが、酒を飲んでいる時間ぐらいが忘れていられる時間で、あとはずっと面白くない。

でも....

出会う人のみならず、道行く人々を見ていても、みんなそれほど面白そうでもない。

いや、それどころか辛そうだったり、嫌そうな顔をしている人は案外多い。

 


相撲界だけじゃない。

東芝粉飾決算も日産の無資格者点検も東レのデータ偽装も森友・加計学園問題も山尾不倫疑惑も都知事の新党結成も....

インチキだらけだ。

「森友・加計学園はインチキではない」とは言い張るものの、あっちこっちの条件を「唯一の特例」として通過してきている。

俺は今までに「唯一の特例」なんか受けたことがないのに。

 


こんな世の中が「情報ツール」を手にしてしまったのだから、腐ったミカンはもう箱の中には納まっておらず、腐ったミカンのぶつけ合いぐらいにテレビの中で、SNSの中で、ラインで、メールで、飛び交っている。

多くの人が問題に意見することで膿を出すことが出来るとか言う人も居る。

 


...そうなのかもしれない。

が、手も届きやしない世界の事を論じて金をもらっているようなコメンテイターは、それが収入の源だから良いんだろうけど....

俺がそこに加わって何になる?

日馬富士のこの先”が気の毒なら、”俺のこの先”は多分もっと気の毒だ。

なんたって彼はまだ若いし、きっと高額な退職金ももらえよう。

さらにはいろいろな才能や資格もあるらしい。

そして、こんな問題を起こしたとて、自国じゃ多分ヒーローだ。

しばらくは「引く手あまた」だろう。

 


...に、比べたら、「俺」は?

横綱どころか相撲界にも入っていないし関係もない。

テレビで取り上げられるような仕事も特技も何もない。

どころか...来年の仕事さえ心配されるご身分だ。

日馬富士の心配をしている場合じゃないし、貴乃花親方の対応を批判できる立場にもない。

 


どうでもいいこととは言わないが、「人のことをとやかく言う前に」やるべきことが山ほどあるだろう....

というのが...「俺」。

やるべきことだらけなので、毎日面白くないのが...「俺」。

ま、そういうことなんだろう。

 


こうやって面白くないながらも、多少の努力は怠らないように継続しているが、思うような結果も出せなくなっている。

どころか、思うような反応すらなくてイラっと来ることが多い。

 


なのでなるべく余分な事には口を開かず、黙々と黙々とやるべきことを嫌々ながら非常に遅いスピードでこなしている。

「俺」はそんな程度。

そんな程度の人間。

正直....相撲界にも色々思うことはあるが....

「その前にお前だろ」ともう一人の俺に言わせる程度には戒めている。

言い訳

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「何が”成功”なのか?」と言われてみても...多分わかっちゃいない。

「どこからが”成功”なのか?」と聞かれても...多分答えられない。

でも...なんだかわからないけど「成功者?」のような気分では人生を終えたい。

 


おかしな話だ。

何なのか説明も出来ないほどにわかっていない状態に在りたい...などと。

霞をつかむような話だ。

 


「明快な基準」が出せないわけじゃあない。

が、そのラインは「とうに無理」なので、出したれば「成功者にはなれないね」で終わってしまう。

例えば「プロ野球選手になる」とか「年収一億円稼ぐ」とか....

 


昔から「成功者」を”意識”してきたならばまだしも、とっくの昔に成功者になるべく努力をする時代を過ぎてしまってからの”意識”なので、全然間に合っていないというか、挑戦権すら無いのかもしれない。

だからハードルをうんと下げて、ひょっとしたらばそれは「もはや成功者とは呼べない」ハードルを目指しているほどに下げているのかもしれない”成功”を意識しているから、答えられないほどに曖昧なんだろう。

 


ただ...そんな曖昧さへの努力であっても、そんな曖昧さへの向上心であっても、

何もしてこなかったより良かったのかな?と7年も経てば思えることもある。

 


「自信?」なんて領域にはほど遠い。

いや、ますます遠のいている。

が、だからこそ余計に「やってきていなかったら...」を想像するなら...”今”怖ろしい事態になっている。

 


ここらあたりが未経験のモチベーションとたかだか7年であっても経験済みのモチベーションは違うと思う。

未経験のモチベーションはけっこう欲も深いが前向きだ。

に比べてみると経験済みのモチベーションは、むしろ「やらなかった場合の”恐怖心”」に多い。

 


なので今はむしろ、その「恐怖心」に背中を押されてもいる。

林先生ではないが「今、やっておかないと....」

はある意味脅迫の役目を果たしている。

 


が、少し老いぼれてきた自分は、正直な弱音も吐きたくなってきている。

「もうそろそろゆっくりやらせてもらってもいいんじゃないか」と。

「成功者なんてほど遠いのかもしれないけど、これでもマシになったんじゃないか」と。

多分...「余分な努力」なんてやめてしまいたい自分が芽生えてきている。

それと「やめてしまった場合」の恐怖心。

その葛藤なんだろう。

 


今のところ「恐怖心」のが強いんだろう。

だから逃げ出さないようにこんなところで言い訳書いている。

退化の改心

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このブログを読んで下さる方々からするなら...

「あれやこれやと吐いている割には、結局堂々巡りで進歩のねー奴だ」と思われているかもしれないのだが...

たしかに大した進歩はないだろうけど、これでも”同じ処”に停滞しているとも思えてはいない。

 


先回も書いた通り、「ずっと楽しくない毎日」には至っているものの、では「楽しかった昔」は充実していたのかと言うならば、むしろ”対峙すべき重荷”から目を逸らしたくて、”楽しみ”に向かっていただけだと断罪できる。

自ら進んで方向転換したわけでもない。

いろいろ逃げられなくなって...少しずつ目を逸らしていた”重荷”に対処せざるをえなくなっただけのこと。

で、多少なりとも目を逸らさないように頑張るようになってみたらば...

実は「楽しかった昔」ってのは、将来抱え込むであろう”苦しさ””辛さ””重さ”....なんかを本当に上手に遠ざけていただけのことであって、その時は、「私は気が大きいので細かなことはネチネチと気にしないのだよ」などと、豪快人ぶっていたんだろう。

まさに後回し。

そして親父と同じ。

 


「後回し」....

なので、一つ二つということには収まらないんだろう。

7年ほど前から楽しくなくなってきた。

というか、楽しいことが全くないというよりも、心が晴れることがなくなった。

家康よろしく「常に漬物石を背負っているような感覚」と言ってもよいだろうか?

....それほどに....

「後回ししてきた」ってな自覚も増える一方だ。

 


なので、誰を恨むということもないんだが....

こんな重い気持ちは嫌なので、これでも一応「晴れやかなる日々の到来」を期待して、自分の努力で挽回できないかと....

それをブログをも通じて考案しているというわけだ。

 


ここ7年、特にここ2年は”目標”なんか打ちたててしまって、それに邁進しているように書いてはいるものの、心情を明かすなら背中を押されっぱなしで、ストレスも半端ない。

まあ、自らそうしているので誰に文句を言えることでもないし、嫌ならやらなきゃいいだけのことなんだが...

多分、自分を支えているのは....

「もう後は無いな」という気分。

いや、”気分”ではなく、本当にいろいろと「後が無い」とやればうあるほど思えてきているから、余計にサボれなくなってきている。

 


5年前に友人が二人死んだ。

寿命と言うには随分若すぎた。

が、そんな若さでも死んでしまったのも事実。

つまり....自分だって「この先いつ死ぬかはわからない年齢」になってきたということ。

....そんなことから自分の「死生観」を公開してみたりしたのだが...

それを聞いた友人の中には

「そんなに暗く考えなくても楽しい老後になるかもしれないじゃないか?気は”持ちよう”だぞ」なんて奴も居たが....

自分は”暗く”考えて言ったわけじゃあなかった。

”普通”そうなるだろ、と言ったつもりだった。

 


多分”昔の自分”もそうだったんだと思う。

暗く重い事も「気の持ちよう」で楽しく”なる”....と。

 


悪いが...”なる”はずはない。

現にそこから5年でむしろ暗く重い事は増えている。

「気の持ちよう君」は同級会にも出てこなくなった。

 


明るく楽しく過ごせりゃ言うことない。

が、やっぱり人生そんなに甘くないんじゃないか?

重く暗い人生も人生だと認めて受け入れないと....

 


まあ、そんなところなんだと思う。

ただ...「気が付いた」のと「後が無い」の期間が短すぎるだけ。

つまり...「先送りできない年齢になってきている」ということ、その自覚。

 


そんなんに追われて過ごしてきた7年なので、そりゃあ楽しいわけがない。

でも、「同じ処」には留まっていないと思う。

なんとなくだが、ものすごくジンワリ進歩しているとは思う。

なんせかつての「楽しかった昔」は退化の一途だったので(笑)

努力は増やしているつもりだが...そういやずっと楽しくない。

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「反省」の原点を辿れば...どうしても”過去”に至ってしまう。

さらにはデキの良い子でもなかったので、小さな頃から反省することだらけなら材料なんか山ほどある。

しかももう結構歳も取っており、全部包含するとキリのない話にもなってしまうわけだ。

 


が、それじゃ今後を考える資料の整理にもならないわけで、回想するにも無駄な時間が多い。

で、とりあえず思いつく”大きな境界”を考えるなら、やっぱりダイエットの為にジョギングを始めた時だろう。

「試合」とか「試験」とか「栄誉」のかかっていない地道な努力を人生で初めて「自分からやろう」となったからだ。

なので、一応「それ以前」と「それ以後」は、人生のとらえ方も対処も変わってきている。

 


しかし、最近多く書いているように、何事にも自惚れ屋なのだ。

改善や改良や変身とて、ものすごく”軽く”達成したようになってしまえる脳みそなのだ。

つまり...普通の人なら「まだまだだよな」という時点で「バッチリ身につけられたように」思えてしまうほどの浅はかさということである。

これは明らかに親父譲りだ。

親父は長男で一家の長ということもあり、比較的大家族であった我が家で毎晩のように自慢を吹聴していた。

今にして思えば「よくもそんなに自慢することがあるものだ」だが、大して身についていないものまで”出来る”と錯覚するなら」そりゃあ”毎日でも”自慢することが続くのだろう。

「内弁慶」...とは多少ニュアンスが違うが、「家族の中での自慢の姿」と「家の外の社会の中での実力」に乖離があるのも当然になる。

親父の”そんなところ”は大っ嫌いで、反面教師としてきたつもり...どころか...絶対に相反する人間性だと思っていたのだが....

ここんところ自分を探索して、この「浅はかなる自惚屋」の部分は、コピーかよ、ぐらい譲り受けている実態が判明。

これがDNAというものか?

これが遺伝というものか?

これが環境というものか?

一番「なりたくない姿に実はなっていた」という気持ち悪い事実に気が付いてしまっている...というわけだ。

そしてそんな親父は、恐ろしい事に、今でもご自分が「浅はかな自惚れ屋」であることに全く気が付いていない。

 


今にして思うなら、自分で言うのも恥ずかしいが、ジョギングを始める前は「やれば結構何でも出来る方でしょう。でも、ガツガツ一生懸命ムキになるのは格好悪いよな」的な人生で、そんなことを飲み屋で仲間にのたまっていたことも多かったような気がする。

そして、酒と自慢話のぐ~たらで太ったわけだ。

が、ジョギングするようになったからといって、人間性が急に変るものじゃない。

基本ぐ~たらなんだが、一旦火が付くと周りが見えないぐらいにはなるので、ダイエットの効果がみるみるうちに出てきたりすると...

「さあ市民マラソンに挑戦だ!」ぐらいにはなる。

そして絞れたカラダをどうだと言わんばかりに露出し、「俺も変わったよな」ぐらいにはまた浅はかに変われる....

やっぱり”性根”は変っていない。

 


それでも、「壁にブチ当たったとき」「不安を覚えたとき」には”行動(地味な努力)”をするような姿勢は出てきた。

それもあったからその後の幾度かの”壁”も乗り越えられてきたんだろう、とは思う...

 


って考えるとやはり、”それらだけ”では、乗り越えられなくなってきた頃に、新たな手段としてブログを書くようになったようだ。

 


そうだね。

そうやって考えると、そういや7年ぐらいだ。

そして、この7年、なんだかいつもギリギリだ。

なんとか立てた目標はクリアしてきたはずなのに、大した喜びもない。

謙虚になったから喜んでいない...のではなく、達成しても次の不安が出てきている。から、達成感に浸る隙もないといった感じだろうか...

そしてさらには....先行きが非常に困難になってきている。

これは恐らく年齢にもよるものなんだろう。

友人の中にも失職したり、リストラされたり、減給されたり、役職定年になったり、廃業する者も出てきた。

自分じゃまだまだ頑張るとしているものの、その意気込みが通用しない段階になってきているのをまざまざと見せつけられている。

 


不思議なことにトレーニングの負荷も比例している。

7年前がピークではないが、2年ほど前から回数が増えなくなってきているし、スピードも落ちてきた。

「無理をするなら」多少は維持できるかもしれないが、今はそこまであえて頑張らないことにしている。

故障したり、体調崩したり、トレーニング自体が苦痛で嫌になってしまうからだ。

「続けること優先」で、誤魔化しているとも言える。

”衰え”を自覚しても居るわけだ。

 


奇しくもだが...

2年前には「五カ年計画」にあった目標を、目標の歳までに、達成出来た。

そこでは一旦確かに満足したはずなのに...そこからは...毎月のように苦難が舞い降りている。

いろいろなところがうまく行かない。

あっちの水が漏れてきたのか?と押さえに行けば、こっちの水も漏れてきた...ってな状況が続き過ぎている。

正直「何でこんなことになってしまっているんだろう」...「呪われているんじゃないのか?」ぐらいの心境なんだが....

 


”人のせい”にしていても、解決にはならないんだろうな、と

仕方なく”自分のせい”を見つけて、解決しよう...ってなところにギリギリ留まっているといった日々だ。

毎日、解決のための”新たな手段”の登場をも期待もしているが、そんなものの気配ももちろん無い。

 


とりあえずは、仕事を、トレーニングを、...に加え....

簡単に「自惚れないこと」が登場してきたので...

それを続けようとはしている。

 


長年平家物語祇園精舎のくだりを人生訓としてきたんだが...

今教えを請うべきは徳川家康かと....

 


人の一生は
重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
 害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり

次々出てくる自惚れ一族

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面白いものが出てきた。

こういったブログを始めた時の下書きだ。

ちょうど6年前になる。

 


いろいろなところに記録は残してあるので、6年前の生活を思い起こすことは難しくない。

生死を彷徨った子供の大怪我、進路、仕事の低迷...

非常に不安定な時期だった。

 


多分...その原因はどこにあるんだろう?どうすりゃもう少し明るい暮らしに戻せるのだろう?どこか間違っているんだろうか?

と、

”解明”の手がかりにしたくて、ブログを始めたようだ。

 


そして”はてな”に移動し、合わせて6年経ったものの...

相変わらず”同じようなこと”書いている...ということは...”同じようなこと”考えている...んだろう。

こういうのは「進歩が無い」というんだよな。普通。

 


が、強がるわけではないが、このもんどり打っているような6年でも、残した成果はある。

いろいろな面で達成できたこともある。

そこは自惚れではなく、認めてやってもよい部分だとも思う。

でなきゃ、もんどり打っていた意味もないというものだ。

 


...が、一方では結果を出しても解決しない”もやもや”は、続いているということ。

少なくとも6年。

それも何だか理解ができる。

実際思い当たることばかりだ。

 


もともとが思慮深いにはほど遠い生き方だった。

こんな頻繁に文章を書く習性もなかった(笑)

むしろ...こういうのは面倒臭いと思っていたし、この手の趣向の方々も苦手に感じる方だった。

 


が、恐らく”祈り”というか”願い事”というか”救われたい”というような”宗教的感覚”で”文章を書くこと”に頼り始めたように思う。

 


ブログでは、ほとんど「自分のこと」しか書いていないし、「自分のこと」しか考えていない。

まあ自惚れ屋なので仕方がないのかもしれないが、それでも、実際の日常では、当たり前だが”そうはいかない”。

ので、それなりに「他人のこと」だって考えている。

 


が、「うまくいっていない原因」が、「自分にあるだろうこと」は推測がついていたから、もう少し自分を解体したいと、文字で表すようになったようだ。

 


混沌とした6年など面白いはずがない。

しかし、「考え中」だから気が付けることもある。

「自分を知る」手がかりのような書籍との出会い。

旧友との会話の中であらためて知る「自分」....。

「これで良し!」としていたら、知ることの出来ない”自分”をこの6年では少しでも知ることができたように思っていたが....

一夜たってみても、昨日の思い付きは、今のところの最大限の「自分がうまくいかなかった理由」のような気がしている。

 


たまたま...昨日も父親に会った。

老いて自信が無いことも多いんだろう、相談されることは多い。

が....その相談の最中でさえ、相当に力量ある人をけなす。

また、自分の実績を誇る。

大した家系でもないのに、相当に自惚れた想像の家系を自慢する。

その上で....

「今後が心配だ」....となると、何なんだその自慢は...と...。

 


...かつては大家族で同居していた。

学歴を持つ者は一人も居ない。

いや、低学歴が悪いというわけではないが、学歴の取得をコキ下ろすこともない。

が、「あの人は○○大学を出てもあの程度だ」「先生ったって大学で何勉強したんだろうな...」

酒を喰らいながらそうやってコキ下ろし合う姿を毎晩見てきた。

 


”複数”...なので、あたかも「公の意見」のように子供の自分には浸透したのかもしれない。

だから...本当に勉強しない子だった。

いや、勉強することが格好悪い、進路なんか真面目に考えることは格好悪い、大学なんて苦労知らずのお坊ちゃんの行く所、と本当に思っていた。

たまたまに一校だけ受かったので、わが家系としちゃあ珍しい大卒にはなったものの、それさえも「ちょいと恥ずかしいこと」ぐらいに思って生活してきたぐらいだ。

 


学歴...を例に出しているが、学歴が問題ではない。

持ってないもの、身についてないもの、を「不要なもの」と決めつけてしまう「自惚れ」。

”持つこと”は出来ないにしても、”持っている人”を中傷する必要もないこと。

言葉で非難することによって自らの正当性を浮かび上がらせても、そんな効果は「聞きもしない」お利口な人には及ばないこと。

”自惚れ”を”自信”と言い聞かせてきても、いざという時には”自惚れ”だからこその”不安”が勝ってしまって勝負に勝てないこと。

等々....

 


見直してみたらば、自分だけじゃない。

我が家の衰退の根源のようにもなっている...

 


正直なところ、父方も母方も、そういや繁栄した大家族だった。

なので幼少の頃はどちらに出かけても賑やかだった。

が、気がつきゃ一家離散ともいえるぐらいに散り散りばらばらだ。

もう噂しか聞かないが、幸せになっている人も聞くことがない。

かつて...自慢大会が毎日開かれているのかぐらいの賑やかさだったのが....よけいにこっけいだ。

 


ぎりぎりといえばぎりぎりかもしれないが、自分は親戚はおろか兄弟とも仲良くない。

こういった家族と一緒の時間を過ごすのが苦手で、今を思えば違和感があったのかもしれない。

それがゆえに、この「自惚れ一家」の被害は”これでも”少なくて済んでいるのかもしれない。

ある意味、最後のジェダイならずも、生き残ることが出来ている最後の自惚れ屋なのかもしれない...

 


なんだか妙に納得できる二日間になっている。

人の欠点なんて、嫌われてまでも注意してくれるような三蔵法師のようなお方はそうはいない。

特にイキりたって、舞い上がって、気色ばんているような輩を利口な人はまともに相手にはしない。

だから...自分で気が付くまでは気が付かない....

 


少し思い起こしても....

あの時も、あの時も、そういやあの時も...

と、自信を持っている割(はず)には....踏み出せなかったこと....

言っているほどに結果を残せなかったこと...

何十年も生きてきて...全然大したことない”今”

 


その最大の原因は、

もう出来ているように

もう身についているように

もう備わっているように

もうわかっているように

簡単単純な努力しかしないくせに、一通りのことがわかっているように、勝手に錯覚できていた”特異な思考”にあること

 


本当に出来る者に対して「お前なら出来る」と後押しして出てくるのは「自信」

実力も身につけていない、その努力もしない者が「自分なら出来る」と欲望達成のために後押しするエネルギーは「自惚れ」

 

 

.....自惚れ屋では幸せにはなれないな。

自分の役割は、自分の代で「自惚れ一家」を断ち切ることのような気がしている。