小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

退化の改心

f:id:okutavianus:20171118170608j:plain


このブログを読んで下さる方々からするなら...

「あれやこれやと吐いている割には、結局堂々巡りで進歩のねー奴だ」と思われているかもしれないのだが...

たしかに大した進歩はないだろうけど、これでも”同じ処”に停滞しているとも思えてはいない。

 


先回も書いた通り、「ずっと楽しくない毎日」には至っているものの、では「楽しかった昔」は充実していたのかと言うならば、むしろ”対峙すべき重荷”から目を逸らしたくて、”楽しみ”に向かっていただけだと断罪できる。

自ら進んで方向転換したわけでもない。

いろいろ逃げられなくなって...少しずつ目を逸らしていた”重荷”に対処せざるをえなくなっただけのこと。

で、多少なりとも目を逸らさないように頑張るようになってみたらば...

実は「楽しかった昔」ってのは、将来抱え込むであろう”苦しさ””辛さ””重さ”....なんかを本当に上手に遠ざけていただけのことであって、その時は、「私は気が大きいので細かなことはネチネチと気にしないのだよ」などと、豪快人ぶっていたんだろう。

まさに後回し。

そして親父と同じ。

 


「後回し」....

なので、一つ二つということには収まらないんだろう。

7年ほど前から楽しくなくなってきた。

というか、楽しいことが全くないというよりも、心が晴れることがなくなった。

家康よろしく「常に漬物石を背負っているような感覚」と言ってもよいだろうか?

....それほどに....

「後回ししてきた」ってな自覚も増える一方だ。

 


なので、誰を恨むということもないんだが....

こんな重い気持ちは嫌なので、これでも一応「晴れやかなる日々の到来」を期待して、自分の努力で挽回できないかと....

それをブログをも通じて考案しているというわけだ。

 


ここ7年、特にここ2年は”目標”なんか打ちたててしまって、それに邁進しているように書いてはいるものの、心情を明かすなら背中を押されっぱなしで、ストレスも半端ない。

まあ、自らそうしているので誰に文句を言えることでもないし、嫌ならやらなきゃいいだけのことなんだが...

多分、自分を支えているのは....

「もう後は無いな」という気分。

いや、”気分”ではなく、本当にいろいろと「後が無い」とやればうあるほど思えてきているから、余計にサボれなくなってきている。

 


5年前に友人が二人死んだ。

寿命と言うには随分若すぎた。

が、そんな若さでも死んでしまったのも事実。

つまり....自分だって「この先いつ死ぬかはわからない年齢」になってきたということ。

....そんなことから自分の「死生観」を公開してみたりしたのだが...

それを聞いた友人の中には

「そんなに暗く考えなくても楽しい老後になるかもしれないじゃないか?気は”持ちよう”だぞ」なんて奴も居たが....

自分は”暗く”考えて言ったわけじゃあなかった。

”普通”そうなるだろ、と言ったつもりだった。

 


多分”昔の自分”もそうだったんだと思う。

暗く重い事も「気の持ちよう」で楽しく”なる”....と。

 


悪いが...”なる”はずはない。

現にそこから5年でむしろ暗く重い事は増えている。

「気の持ちよう君」は同級会にも出てこなくなった。

 


明るく楽しく過ごせりゃ言うことない。

が、やっぱり人生そんなに甘くないんじゃないか?

重く暗い人生も人生だと認めて受け入れないと....

 


まあ、そんなところなんだと思う。

ただ...「気が付いた」のと「後が無い」の期間が短すぎるだけ。

つまり...「先送りできない年齢になってきている」ということ、その自覚。

 


そんなんに追われて過ごしてきた7年なので、そりゃあ楽しいわけがない。

でも、「同じ処」には留まっていないと思う。

なんとなくだが、ものすごくジンワリ進歩しているとは思う。

なんせかつての「楽しかった昔」は退化の一途だったので(笑)

努力は増やしているつもりだが...そういやずっと楽しくない。

f:id:okutavianus:20171114113433j:plain

 


「反省」の原点を辿れば...どうしても”過去”に至ってしまう。

さらにはデキの良い子でもなかったので、小さな頃から反省することだらけなら材料なんか山ほどある。

しかももう結構歳も取っており、全部包含するとキリのない話にもなってしまうわけだ。

 


が、それじゃ今後を考える資料の整理にもならないわけで、回想するにも無駄な時間が多い。

で、とりあえず思いつく”大きな境界”を考えるなら、やっぱりダイエットの為にジョギングを始めた時だろう。

「試合」とか「試験」とか「栄誉」のかかっていない地道な努力を人生で初めて「自分からやろう」となったからだ。

なので、一応「それ以前」と「それ以後」は、人生のとらえ方も対処も変わってきている。

 


しかし、最近多く書いているように、何事にも自惚れ屋なのだ。

改善や改良や変身とて、ものすごく”軽く”達成したようになってしまえる脳みそなのだ。

つまり...普通の人なら「まだまだだよな」という時点で「バッチリ身につけられたように」思えてしまうほどの浅はかさということである。

これは明らかに親父譲りだ。

親父は長男で一家の長ということもあり、比較的大家族であった我が家で毎晩のように自慢を吹聴していた。

今にして思えば「よくもそんなに自慢することがあるものだ」だが、大して身についていないものまで”出来る”と錯覚するなら」そりゃあ”毎日でも”自慢することが続くのだろう。

「内弁慶」...とは多少ニュアンスが違うが、「家族の中での自慢の姿」と「家の外の社会の中での実力」に乖離があるのも当然になる。

親父の”そんなところ”は大っ嫌いで、反面教師としてきたつもり...どころか...絶対に相反する人間性だと思っていたのだが....

ここんところ自分を探索して、この「浅はかなる自惚屋」の部分は、コピーかよ、ぐらい譲り受けている実態が判明。

これがDNAというものか?

これが遺伝というものか?

これが環境というものか?

一番「なりたくない姿に実はなっていた」という気持ち悪い事実に気が付いてしまっている...というわけだ。

そしてそんな親父は、恐ろしい事に、今でもご自分が「浅はかな自惚れ屋」であることに全く気が付いていない。

 


今にして思うなら、自分で言うのも恥ずかしいが、ジョギングを始める前は「やれば結構何でも出来る方でしょう。でも、ガツガツ一生懸命ムキになるのは格好悪いよな」的な人生で、そんなことを飲み屋で仲間にのたまっていたことも多かったような気がする。

そして、酒と自慢話のぐ~たらで太ったわけだ。

が、ジョギングするようになったからといって、人間性が急に変るものじゃない。

基本ぐ~たらなんだが、一旦火が付くと周りが見えないぐらいにはなるので、ダイエットの効果がみるみるうちに出てきたりすると...

「さあ市民マラソンに挑戦だ!」ぐらいにはなる。

そして絞れたカラダをどうだと言わんばかりに露出し、「俺も変わったよな」ぐらいにはまた浅はかに変われる....

やっぱり”性根”は変っていない。

 


それでも、「壁にブチ当たったとき」「不安を覚えたとき」には”行動(地味な努力)”をするような姿勢は出てきた。

それもあったからその後の幾度かの”壁”も乗り越えられてきたんだろう、とは思う...

 


って考えるとやはり、”それらだけ”では、乗り越えられなくなってきた頃に、新たな手段としてブログを書くようになったようだ。

 


そうだね。

そうやって考えると、そういや7年ぐらいだ。

そして、この7年、なんだかいつもギリギリだ。

なんとか立てた目標はクリアしてきたはずなのに、大した喜びもない。

謙虚になったから喜んでいない...のではなく、達成しても次の不安が出てきている。から、達成感に浸る隙もないといった感じだろうか...

そしてさらには....先行きが非常に困難になってきている。

これは恐らく年齢にもよるものなんだろう。

友人の中にも失職したり、リストラされたり、減給されたり、役職定年になったり、廃業する者も出てきた。

自分じゃまだまだ頑張るとしているものの、その意気込みが通用しない段階になってきているのをまざまざと見せつけられている。

 


不思議なことにトレーニングの負荷も比例している。

7年前がピークではないが、2年ほど前から回数が増えなくなってきているし、スピードも落ちてきた。

「無理をするなら」多少は維持できるかもしれないが、今はそこまであえて頑張らないことにしている。

故障したり、体調崩したり、トレーニング自体が苦痛で嫌になってしまうからだ。

「続けること優先」で、誤魔化しているとも言える。

”衰え”を自覚しても居るわけだ。

 


奇しくもだが...

2年前には「五カ年計画」にあった目標を、目標の歳までに、達成出来た。

そこでは一旦確かに満足したはずなのに...そこからは...毎月のように苦難が舞い降りている。

いろいろなところがうまく行かない。

あっちの水が漏れてきたのか?と押さえに行けば、こっちの水も漏れてきた...ってな状況が続き過ぎている。

正直「何でこんなことになってしまっているんだろう」...「呪われているんじゃないのか?」ぐらいの心境なんだが....

 


”人のせい”にしていても、解決にはならないんだろうな、と

仕方なく”自分のせい”を見つけて、解決しよう...ってなところにギリギリ留まっているといった日々だ。

毎日、解決のための”新たな手段”の登場をも期待もしているが、そんなものの気配ももちろん無い。

 


とりあえずは、仕事を、トレーニングを、...に加え....

簡単に「自惚れないこと」が登場してきたので...

それを続けようとはしている。

 


長年平家物語祇園精舎のくだりを人生訓としてきたんだが...

今教えを請うべきは徳川家康かと....

 


人の一生は
重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
 害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり

次々出てくる自惚れ一族

f:id:okutavianus:20171108115114j:plain


面白いものが出てきた。

こういったブログを始めた時の下書きだ。

ちょうど6年前になる。

 


いろいろなところに記録は残してあるので、6年前の生活を思い起こすことは難しくない。

生死を彷徨った子供の大怪我、進路、仕事の低迷...

非常に不安定な時期だった。

 


多分...その原因はどこにあるんだろう?どうすりゃもう少し明るい暮らしに戻せるのだろう?どこか間違っているんだろうか?

と、

”解明”の手がかりにしたくて、ブログを始めたようだ。

 


そして”はてな”に移動し、合わせて6年経ったものの...

相変わらず”同じようなこと”書いている...ということは...”同じようなこと”考えている...んだろう。

こういうのは「進歩が無い」というんだよな。普通。

 


が、強がるわけではないが、このもんどり打っているような6年でも、残した成果はある。

いろいろな面で達成できたこともある。

そこは自惚れではなく、認めてやってもよい部分だとも思う。

でなきゃ、もんどり打っていた意味もないというものだ。

 


...が、一方では結果を出しても解決しない”もやもや”は、続いているということ。

少なくとも6年。

それも何だか理解ができる。

実際思い当たることばかりだ。

 


もともとが思慮深いにはほど遠い生き方だった。

こんな頻繁に文章を書く習性もなかった(笑)

むしろ...こういうのは面倒臭いと思っていたし、この手の趣向の方々も苦手に感じる方だった。

 


が、恐らく”祈り”というか”願い事”というか”救われたい”というような”宗教的感覚”で”文章を書くこと”に頼り始めたように思う。

 


ブログでは、ほとんど「自分のこと」しか書いていないし、「自分のこと」しか考えていない。

まあ自惚れ屋なので仕方がないのかもしれないが、それでも、実際の日常では、当たり前だが”そうはいかない”。

ので、それなりに「他人のこと」だって考えている。

 


が、「うまくいっていない原因」が、「自分にあるだろうこと」は推測がついていたから、もう少し自分を解体したいと、文字で表すようになったようだ。

 


混沌とした6年など面白いはずがない。

しかし、「考え中」だから気が付けることもある。

「自分を知る」手がかりのような書籍との出会い。

旧友との会話の中であらためて知る「自分」....。

「これで良し!」としていたら、知ることの出来ない”自分”をこの6年では少しでも知ることができたように思っていたが....

一夜たってみても、昨日の思い付きは、今のところの最大限の「自分がうまくいかなかった理由」のような気がしている。

 


たまたま...昨日も父親に会った。

老いて自信が無いことも多いんだろう、相談されることは多い。

が....その相談の最中でさえ、相当に力量ある人をけなす。

また、自分の実績を誇る。

大した家系でもないのに、相当に自惚れた想像の家系を自慢する。

その上で....

「今後が心配だ」....となると、何なんだその自慢は...と...。

 


...かつては大家族で同居していた。

学歴を持つ者は一人も居ない。

いや、低学歴が悪いというわけではないが、学歴の取得をコキ下ろすこともない。

が、「あの人は○○大学を出てもあの程度だ」「先生ったって大学で何勉強したんだろうな...」

酒を喰らいながらそうやってコキ下ろし合う姿を毎晩見てきた。

 


”複数”...なので、あたかも「公の意見」のように子供の自分には浸透したのかもしれない。

だから...本当に勉強しない子だった。

いや、勉強することが格好悪い、進路なんか真面目に考えることは格好悪い、大学なんて苦労知らずのお坊ちゃんの行く所、と本当に思っていた。

たまたまに一校だけ受かったので、わが家系としちゃあ珍しい大卒にはなったものの、それさえも「ちょいと恥ずかしいこと」ぐらいに思って生活してきたぐらいだ。

 


学歴...を例に出しているが、学歴が問題ではない。

持ってないもの、身についてないもの、を「不要なもの」と決めつけてしまう「自惚れ」。

”持つこと”は出来ないにしても、”持っている人”を中傷する必要もないこと。

言葉で非難することによって自らの正当性を浮かび上がらせても、そんな効果は「聞きもしない」お利口な人には及ばないこと。

”自惚れ”を”自信”と言い聞かせてきても、いざという時には”自惚れ”だからこその”不安”が勝ってしまって勝負に勝てないこと。

等々....

 


見直してみたらば、自分だけじゃない。

我が家の衰退の根源のようにもなっている...

 


正直なところ、父方も母方も、そういや繁栄した大家族だった。

なので幼少の頃はどちらに出かけても賑やかだった。

が、気がつきゃ一家離散ともいえるぐらいに散り散りばらばらだ。

もう噂しか聞かないが、幸せになっている人も聞くことがない。

かつて...自慢大会が毎日開かれているのかぐらいの賑やかさだったのが....よけいにこっけいだ。

 


ぎりぎりといえばぎりぎりかもしれないが、自分は親戚はおろか兄弟とも仲良くない。

こういった家族と一緒の時間を過ごすのが苦手で、今を思えば違和感があったのかもしれない。

それがゆえに、この「自惚れ一家」の被害は”これでも”少なくて済んでいるのかもしれない。

ある意味、最後のジェダイならずも、生き残ることが出来ている最後の自惚れ屋なのかもしれない...

 


なんだか妙に納得できる二日間になっている。

人の欠点なんて、嫌われてまでも注意してくれるような三蔵法師のようなお方はそうはいない。

特にイキりたって、舞い上がって、気色ばんているような輩を利口な人はまともに相手にはしない。

だから...自分で気が付くまでは気が付かない....

 


少し思い起こしても....

あの時も、あの時も、そういやあの時も...

と、自信を持っている割(はず)には....踏み出せなかったこと....

言っているほどに結果を残せなかったこと...

何十年も生きてきて...全然大したことない”今”

 


その最大の原因は、

もう出来ているように

もう身についているように

もう備わっているように

もうわかっているように

簡単単純な努力しかしないくせに、一通りのことがわかっているように、勝手に錯覚できていた”特異な思考”にあること

 


本当に出来る者に対して「お前なら出来る」と後押しして出てくるのは「自信」

実力も身につけていない、その努力もしない者が「自分なら出来る」と欲望達成のために後押しするエネルギーは「自惚れ」

 

 

.....自惚れ屋では幸せにはなれないな。

自分の役割は、自分の代で「自惚れ一家」を断ち切ることのような気がしている。

自惚れ大

f:id:okutavianus:20171107102748j:plain


最近”はてな”で、「ブログを書くことによって自分のしたいことが明確になる」という人を見つけた。

 


そうそう、それそれ。

自分もそう端的に言いたかった...んだが....

これまでもけっこう長い間「言えてこなかった」理由が最近は「わかる気もする」になっている。

 


そういえば...東大に進んだ奴と中学時代に同じクラスになったことがあって...

ほとんどノートをとらないのに....めっちゃ憶えて、めっちゃ順序だてて話せることに驚いたことがある。

まあ、その時は「俺だってやる気になればできるさ」と思っていたが...

それから相当に経験を積んだはずなのに、いまだ「出来ない」。

 


「ブログを書くこと」を最初からその救済に充てようと企んだわけではないが、奇遇にも「けっこう脳みその整理になるかも?」となって今に至っている。

 


が、それでも「明確」までには至らない。

どちらかといえば...「もつれている糸が多少はほどけた...かな?」ってな程度...

「どんだけ頭が悪いんじゃー」とキレたくもなる...ぐらいに。

 


まあ、高望みしたって仕方が無い。

自分には自分の能力ってものがある。

 


最近...改めて自分は相当の「うぬぼれ思考」であることを思い知らされている。

原因は”育ち”というか、”家庭”だ。

 


多少変ったところがある人達だな、ぐらいは思っていたが、まあまあ普通に社会生活も送っていたし、これで人並みな思考なんだろう...ぐらいなものだった。

が、そんな場所で育った”今”の自分の望みやら、目標やら、後悔やらは、彼らにとっては、「別に普通」なのに対して、けっこう世間じゃ「身分知らず」であることに気が付き始めて驚いている。

 


いやいや、それ相応の能力や履歴や出自でもあるなら、別なのだろうが、そんなものは何もない。

いや、むしろ、歴史的にみたらば、河原乞食に近いというか、まともに河原乞食だ。

振り返るなら、たまたまに、ちょいと人並みに社会人生活が送れるようになった...程度の家庭だ。

 


そんなクセして、その家庭内でのセリフの”思い上がっていること”。

まさに大言壮語。

総理大臣も、北野武も、石原慎太郎も、みんな、「大したことない奴」になっちゃっている....

ってことは当然なぐらいに....

学校の先生や、隣のおじさんや、市会議員程度なら、「我が家に叶うはずがない」口調だ。

 


もちろんそんなことはない。

いや、全く違う。

むしろ全員揃って学歴最低限の家庭だったので、「叶うはずがない」のはコチラ側だ。

 


...恐らく...同情的に見れば...世間に認めてもらえないような出自歴史だったので...

せめて家族内だけででも「誇らしい気持ち」を自画自賛したかったんだろう....

もの哀しい...というかわからんでもないが....

 


ただ...そんなモノの見方というか、社会の判断の仕方というのは、怖ろしいほどに自分にも身についていた。

んだということを、今更ながらに気が付き始めた。

どうしてこんなにも悶々としているのか?

どうして不満や後悔ばかりなのか?

目標や欲望や願望と現実にこうも「差」があるのか?

 


それは...

「自惚れ」てでもいなければ自我を支え切れなった家庭において、励まし合うかのように自惚れ合ってきた環境の中で、怖ろしいほどに「自惚れられる」性質をぬぐい去れないほどに沁み着かせた変態なのかもしれない。

 


その代表格である親父は

常に勘違いしている。

いちいち勘違いしている。

だから何も迎合しない。

つねに不満と不安でイライラしている。

歳をとってよりひどくなっている。

以前より、さらにわかりやすくなってきた。

だから、はっ、と自分も気が付いたのかもしれない。

俺とソックリだ。

 


祖母もそうだった。

気位だけが高いなら、まだ褒めようもあるが、小作人のくせして庄屋ぶるまいで、周りの人間をコキ下ろすこと....

なので...孤独に死んだ。

親父も...孤独で、法事にさえ人は集まらない....

 


とんでもない「自惚れ一家」であったことに気が付いたのは”今”だ。

”普通の人”ならこんな違和感に即座に気がつくんだろう。

”気が付けなかったほどの異常さ”だ。

親父に対しても、何故にイラつくんだろうと思っていたが...”俺”だったので、イラつくんだろう。

 


「どうしてうまく行かないんだろう?」

の答えは簡単。

それだけの実力と努力が足りないだけのことなのに、

「それだけの実力も努力もあるのに」と勘違いしているから、いつまで経ってもその「差」は埋まらない。

 


さてさてどうするのか?

 


正直、自分の育ちには説明しがたい「負の連鎖」をずっと感じていた。

さほどに金欠でもないのに、まずは人が離れてゆく。

母方も一家離散のごとく相続で五家族にも分かれた。

父方は兄弟で裁判を起こす事態で、かつては20人をも超えた法事に今は誰も来ない。

従って「親戚の集まり」というものは皆無。

皆無のくせして....

我が家の歴史の自慢を孫に力説する....

空しいを通り越している。

 


しかし...

家庭の中ではまだマトモな程度の自惚れかもしれないが...

自分にも相当の素養がある。

いや、これまで上手く行かなかった場合の根源の原因は、どうにもソコなんだと確信するぐらいだ。

 


なんだかわかってスッキリしたような....

とんでもなく馬鹿だったと確信したような...

ま、少しずつ考えていくしかないな。

でなけりゃ”今の”親と同じ人生だ。

いや、もうけっこうなりかけている。

 

淡々

f:id:okutavianus:20171030103825j:plain


人生ずっと後悔を背負っていかなきゃならないほどの極悪非道を犯した覚えはないんだが...

「仕事をする」ってことを軽く考えていたことは間違いがない。

残念だが親父も祖父もそうだった。

 


そんな親父や祖父はもちろん嫌いで反抗していたが、歳とって気が付いてみりゃ、同じ穴の狢だ。

一体どの部分に反抗していたのか...

 


「どんな仕事をしたい?」

「将来何になりたい?」

こんな質問も、まともに考えたことは無いように思う。

というか、いい歳こいた今でも、「何になりたかった」というのが浮かばない。

ぐらい...「職業」とか「仕事」に関して関心の薄い人生を過ごしていたと思う。

 


が、「働くこと」は嫌いでもなく、かなり若い頃からバイトをしていたし、学生時代はずっと税金払っていたぐらいだ。

いや、ある意味職を選ばないというか、職も厳密に言えば三回変えているし、バイトも含めりゃ7種ほどの職業も体験しているが、どれも嫌いじゃない。

というか、正確に言えば、「何でもいい」みたいなところがあった。

 


おそらくそのしっぺ返しが”今”になってきているんだろう。

何しろ考え抜いて選んだわけでもないし、そもそも選択した結果じゃない。

はっきり言って「成り行き」で就職し、「成り行き」で今の職業に行き着いただけのこと。

得意なのか不得意なのか好きなのか嫌いなのかも考えたことがなかった。

それよりも....

ともかく給料が多くもらえて、その金でたくさん遊べることを考えることに時間を割きたかったわけだ。

ということで全ては自分のせい。

 


遊ぶことに飽きたわけでもないが、多くの遊び人仲間は没落した。

一人で遊んでいるのもなんだかおかしい。

いや、そもそもに仕事がうまく行かなくなっている。

時代や景気というのもあろうが、熱心じゃなかった若い時代が響いていると思う。

斜陽産業だというのなら、もっと早くに転職すりゃよかっただけの話。

 


少しばかり真面目に働くようになって、付き合う人間も変わってみれば...自分からすりゃ信じられないほど皆けっこう昔から真面目に人生考えていたりして....

あまりにも堂々と遊んでいた自分のあさはかさが嫌になる。

これぞ馬鹿の見本。

 


悶々とした毎日と、雨続きの週末を、なんとかスッキリしたいと整理整頓に励んだりしたが...昔の荷物に多く対面してしまうことにもなり...

後悔と反省ばかりが膨らんでしまったようだ。

 


まあ、何を言っても始まらないほどの年齢にはなっている。

が、アーリーリタイヤが許される環境にもない。

つまり...嫌だろうが、苦しかろうが、当面は働き続けるしかない身分...

...その上で...”将来”を考えるしかないようだ....

 


いろいろなところでうまく行かなくなり、毎日を重い気分で過ごすことが多くなった。

多分、そこから逃れたいんだろう。

その解決の糸口を、過去の反省や後悔から見つけようとしても、「こうしておけばよかった」は見つかるが、「これから先にこうしてゆこう」は見つからない。

 


何度も言い聞かせてはいる....

変えることの出来るのは”これからの自分の人生”だけ。

過去は逆立ちしたって変えられない。

 


さあ...何が出来るのか?何をすればよいものなのか....

ともかく今は暗くならないよう、かといって馬鹿はしゃぎもできないので、

淡々と毎日を過ごせるようには努力をしている...つもり。

リタイヤ

f:id:okutavianus:20171029191935j:plain

 


あまりにもの”雨続き”であり、「外での用事」はこれで三週間も滞ってしまった。ので、ただでさえ消化不良だ。

が、実際の心境としては、消化不良というよりは燃焼不良の毎日が続いている。

室内での所用は片付けばかりでもないので、仕事なんかをやりながらも、少し「どうしてなんだろう?」と考えてみた。

 


二十年ほど前は、仕事と遊び、大袈裟に言うなら、その二種類で生きていた。

あとは食って飲んで寝るぐらい。

それぐらい他の事はしないどころか興味もなかった。

 


が、その後いろいろあってダイエットが始まり、それがジョギングになり、トレーニングなって”今”に続いている。

「雨が多いから」と言ってサボっているわけでもない。

 


そういったことを”努力”というのもおこがましいもんだが、まあ、自分のポテンシャルを高めるためとでも言えばいいか?

けっこう細かなことまで変えてきた。

利き手の反対で、メシも食えれば、歯磨きも出来るし、髭もそれるようになっている。

 


そういった無冠の努力を馬鹿にしているわけではないが、どうせやるならバッジも欲しいかな?と、いくつかの資格も取得し、さらにさらに、となってきたところで....

もう24時間じゃ足らないぐらいに時間を使うようになってきて....

今は資格取得の勉強はやめている。

 


....ぐらいには、充実しているはずなのだが...

充実感は実は無い。

ただ...スケジュールを消化しないと、なんだかサボっている人間のようだし、良くないことが起きた時に後悔の種になるんじゃないかという....

小さな強迫感のようなものかな?

で、続けているだけの感じだ。


でも、二十年前に比べたら、確実にやること増えていて、雨降りの本日とて暇じゃない。

でも、やっぱり充実感は無い。

 


どうしてなのかは、あまりわからない。

ただ...成果が見られなくなってきたからかな?とは思う。

 


たまたま日本シリーズをやっている。

剛速球でならした頃は、コントロールを注意されても、「必要ないさ」と強がって居れたのかな?

やがて自慢の剛速球が通用しなくなって、こそこそコントロールを身につける努力をしたのかな?

そのコントロールを維持していても、珠自体にキレがなくなってきて、いよいよ通用しないのかな?って....

 


ひょっとしたらそんな時期を迎えているような気もしている。

やること、やれること、やっているつもりなんだけど....成果が出なくなってきたよな、と。

 


まあ、有名な野球選手ではないので、引退後に期待される仕事が用意されているわけでもないし、

今の仕事が通用しなくなった時の仕事なんて考えてもいなかったし、

当面は粘り続けるんだろうけど....

 


曲がり角に来ていることは確かだ。

 


正直、これでも年齢からしたら若い方だと自負しているし、気持ちから自ら老け込むこともないだろうし、

ってことで、永遠に続けていくような気持ちではいたけれど...

人間永遠に生きられるわけでもないように、永遠の仕事もまたあるわけないよな、とか。

 


まだまだリタイヤを考えるには早すぎるほど早い年齢なんだけど...

今年は同業者で3件廃業の噂が出て、実際先輩が2人廃業をすることになった。

そして業種は違えど友人がビックリするぐらいの早さでアーリーリタイヤを決めてきた。

リタイヤの入口にはさしかかってきている年齢なんだろう。

 


悶々としないリタイア...なんて、あるわけないよなぁ....。

二週目

f:id:okutavianus:20171028225355j:plain

こんなことも珍しい...と思う。

3週連続週末「雨」

 


従って、3週連続週末「片付け」

 


かといってケチ臭い性分なので、大胆な断舎離など期待できるはずもなく...

...でも、随分スムーズに動けるようになった。

 


「片付いた」...と称せないのは、そこまで至らないからだが...

「通り道」と「取り出し」がスムーズになったことぐらいの効果はある。

ただ...「見た目」はあまり変わらない....

 


自分じゃ「きれい好き」「整理好き」だと思っていたが、そりゃま「好き」なのかもしれないが...”実行”は伴ってなかったよな...とは思う。

大した”片付け”ではないのに、妙にスッキリしているのは、”今までにない”光景だからだろう。

 


明日も雨だ。

まだまだ整理すべきところはあるに決まっているんだが....

何と言うか...「一周目」は終わったかな?というカンジ。

なので、明日から...いや、「今」から...二週目に突入いたしますぞよ....