小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

マンダラチャート

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大谷君のマンダラチャートが出回っている。

拝見させてもらったが...ある意味想像通り。

16歳で....の驚きよりも...

自分の16歳ってのは一体何だったんだ?....に驚くぐらい。

 


いや、自分の16歳時には、自分に違和感を覚えなかったので、普通はそんなものなんだろう...

大谷君が異次元の存在であるほどズバ抜けいるのであって、すでに比較したり論評したりすることすら失礼な話だ。

 


ということで、もう少しまともに凄い人を想像してみたんだが....

例えばの出ずっぱりの青学の監督とて....なんやかんや言っても、1勝でも凄いことなのに何連勝だ。

指導力には目をみはる。

普通に考えるならば、自分を成長させるだけでもなかなか出来ないことなのに、他人様まで成長させてしまうのだから、その力量たるや...

 


スポーツの世界ばかりじゃない。

ユニクロの柳井さん、楽天の三木谷さん、ソフトバンクの孫さん等々....様々に論評されるんだが....

一代にしてあれだけの会社を作り、人材を育てているのは事実。

溢れんばかりの力量があるのだろう。

自分だけじゃなく周りも育ててしまう。

 


さて、自分はどう?

不満や愚痴は言わないようにしているが....内心じゃあ思い通りに行かないことを周りのせいにしたことある....よな。

でも、自分に指導力があったれば...それも違った状況にもなっていたんじゃないだろうか?

 


もう結婚して、子供も出来て相当になる。

似たような歴史を辿ってきた友人知人も居る。

とても仲良しで羨ましいほどにまとまった家族になっている人も居る。

 


さて、自分はどう?

一応家族の体を成してはいるものの、バラバラだ。

自由があると言えば自由なんだが...家族の団結みたいなことに一生懸命ではなかった...ってのはあるんじゃないか?

 


頑張ってはいるつもり....

頑張ってはきたつもり....

が、結果はこのようにサエない。

仕事どころか、家庭さえ、上手に運営出来ているとは言い難い。

ひょっとしたらば....

恐ろしいほどに指導力に欠けているのかもしれない。

 


原因は全て自分だろう。

嫁にもあるかもしれないが、嫁を選んだのは自分だ。

仕事もそう。

幾多の偶然があっての選択だったのかもしれないが....

最終決定したのは誰の意思でもない、自分だ。

 


が...まだ何か諦めきれない。

何故か諦めきれない。

生まれ変わることもやり直すことも出来ないのはわかっているけど...

まだ、どうにかしたい。

その理由もわからないけど。

 


大谷君ではなかったけれども....

100mを10秒台で走ることは出来なかったけれども...

上場企業の社長にはなれなかったけれども...

まだ...”何か?”には手が届くってこともあるんじゃないだろうか?

「見違えるような変身」は出来ないだろうけど...「このまま終わり」じゃなく「もう少し別の形」にぐらいは変身できないだろうか?

 


希望するからには労力もはらうつもり....

いや、払うから希望を叶えたい。

 


ただ...その努力ももう、「自分だけの範囲」でいいかな。と。

 


並み居る偉人の皆さんの活躍は、もう自分には無理。

様々なところに書かれている”リーダーシップ”やら”指導力”で周囲を成長させることも自分には無理。

残念だけれども...自分の影響が及ぶのは、もっと”ささやかな領域”ぐらいが限界のようだ。

最低の影響単位。

そう「自分」まで。

それ以上には素質も努力も及ばない。

大谷君がダメを押した(笑)

 


言い訳しておくと...自分勝手ではないと思う。

出来ない範囲で背伸びをした努力で空回りするよりも、出来る範囲で確実に成果を出す。

それが自分じゃ哀しいかな、「自分一人分」の範囲まででしか結果が出せない。ということだけだ。

ま、楽観的に付け加えるなら....自分だけでも成長させることが出来るなら...自分すらも成長しないよりは...多少の幸せを”周囲にも”もたらすことにもなるやもしれない....と。

 


こんな具合に書くと、悲壮感満載、気の毒な目標、のようだが、本人全くそれはない。

むしろ少しスッキリしている。

ある種の諦め?

いや、自惚れを除いた自分への理解がようやく出来るようになったんじゃないか?と、これでも自分は思っている。

 


さあ、そんな自分のマンダラチャートでも書いてみようか。

やれば出来る子。

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上手く行かなかったことや、

後悔を残していることの”起因”は、

即座にはそう結びつかなくても....時が経ってみると...「やっぱり...」と頷いてしまうぐらいに....

”自分なのか....”に辿り着く。

 


直後には、自分の非も認めたくもないのだろうし、たしかに誰かのせい、運のせい、という部分が皆無というわけでもないので...

「自分に原因がある」などとは、とてもではないが思えなかったりするものの...

何十年もの時を経ると...余分な感情やら情景やらが剥げ落ちて....状況がシンプルに映るのだろうか?

ふとした拍子に...

「やっぱり俺だったのか....」と思わされたりする。

 


人からの告白で知ることも少なくない。

十二分を超えてわかったつもり...いやさ、”確信して”判断したことが、その確信と真逆だったりすることもある。

そこまでになると、もはや”恥ずかしい”ではなく、一瞬”空虚”にもなり思考が止まってしまったりもする。

 


そう思うようになったのも最近で、自然にそう思うようになっているのだから、これが悪いのか良いのかも考えたことはない。

ただ...こう思うようになってしまうと....”うかつに”人のせいには出来なくなってきた。

そう、何年か後には...「えっ、俺のせいだったの?」ということが判明するからだ。

 


「人のせいにしない」というと、けっこう立派な性質の持ち主だと自慢しているようだが、そうじゃない。

記述を正確にするなら...「人のせいには出来ないほどに自分に原因がある」ということだからだ。

俗的な言い方にすれば...「どんだけ自分に原因があるのか」ということだ。

 


過去の失敗や後悔についての”原因のおさらい”は、もう既に一通りは済ませた....つもり...

でも...忘れていることも多いんだろう....フトした拍子に...

「あっ、それも、そうだったのか」

ってな調子でひょっこり登場する。

 


何も嬉しくはないし、特別な効能も無いように思うが...

まあ、今後そういう事態を増やさないようなささやかな”抑止力”にはなってくれているぐらいは期待したい。

 


それにしても数々の失敗や後悔の原因がこれほどまでに自分にあると、家庭環境やDNAを疑ってしまうのだが....

自分の父も見事なぐらいに老後の大半を過去の反省に奪われていて....

そんな二人の共通点は....「過大な自己評価」だと思う。

いわゆる「やれば出来る子」だ。

 


進学できなかった。

道をはずれた。

片親だった。

さほどに特別ではないハンディを自分の結果の言い訳に利用するならば....

「それでも....この程度でふみとどまっているということは?....そう、”やれば出来る子”なんだよね」

という妙な自負心に結び付く。

本当の力量は備わっていないのに、足らずまいをハンディで埋めて、”自信”に変えているというややこしいというか姑息な性質だ。

早い話が未熟者であることを認識せずに、戦国武将のような勇敢な判断を下していたとするならば....

そりゃあ「ただの格好つけ」

で、失敗するに決まっている。

 


ということなんだろう。

 


こんな簡単なこと。

中学二年生ぐらいでわかっていたかった。

が、恐らく偽物の自信よる「自分は間違っちゃいない」という傲慢さが、気が付かせなかったのだろう。

 


重荷とまでは言わないが....

多分、死ぬまで、静かに、背負っていくんだとは思う。

 


しかしなぁ....頑張って柳に飛びついてきたつもりだったのに....

やっぱり蛙の子は蛙なんだよなぁ....と、虚しい空気に包まれたりもする。

 


いや、まだ、諦めてはいないんだが....

 

何故に焦っている?

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いわゆる...”記事”とは呼んでみたりしているが...

自分の場合は”記事”というよりも、”自分の修正点”を見つけては、それを考察しているカンジ。

まあ、他人様にゃあ実に無意味な”記事”なんだろうけど、これでも本人には今まで役にたっていることがいくつかあった。

から、続けている。

 


「自分を変えて行くこと」は、常々意識しているので、ネタは毎日ある。

むしろ一つではなく、浮かんでは消え浮かんでは消える泡のごとく、アットランダムに、無関係に、頭の中に登場してくる。

 


全部書いていたらば、キリがないし、方向性も定まらないから、ある意味”抜粋”して書いている。

が、かといって十二分に選考して書いているわけでもない。

心境と暇とのタイミングの一致。

みたいな時に頭に存在する修正点や確認点を書きとめている、というところか。

今日もそんなところを一つ。

 

 

自分について勘違いしている(していた)ことはいくつもある。

そしてまだまだ勘違いしていることもあるんだろう。

 


若い頃から「大人っぽい」とか「堂々としている」と言われてきて、「そうだ」と長いこと思ってきた。

が、ここ最近は「それは全く違う」と思うようになっている。

むしろ”逆”。

”いつも”急いでいる。

”いつも”慌てている。

”いつも”どうしてだか焦っている。

別に”残り時間の少ないテスト中”なんかじゃない。

どころか...今日やらなくても明日でも十分間に合うものもあったりする....

のに....いつも慌てている。

 


先回話した、「捨てる」「削除する」なんてことにおいてもそう。

別に「捨てなくても....」「削除しなくても....」今日困ることはないだろうに....

いやさ、「どうしても今日捨てなくても」「どうしても今日削除しなくても」...絶対困ることはないはずなのに....

それでも「捨てなくちゃ」という気持ちが舞い降りただけで、もう焦りだす。急ぎだす。

さらには....

一挙に捨てようとする。

一度に整理しようとする。

多少の見落としはあろうとも一挙に捨ててスッキリしたくなる。

これは病気か?

 


予定や情報や所用の削除も同様だ。

出来る限り”たくさん”やろうとする。

一つや二つだと”やった気”にならない。

一日一つでも、一ヶ月なら30個削除できるのに....

一日で30個削除したくなる。

一つや二つなら焦ることなくやれるにに....

目安の無いほど”たくさん”やりたがっているので....

そりゃあ、焦らずにはいられないように....自分で自分に命令しているわけだ。

 


精神病なのか?

 


そういうことに一応自分で気が付いたようなので....

 


とりあえず...一つずつ「捨てる」ように自分に言い聞かせている。

一つでも進めば、ゼロよりも数段マシだとなだめている。

 


いつかブログで書いたように思う。

買ってきたプラモデルは徹夜してでも即座に完成させないと気が済まなかった性格だ。

それは「きれいに作る」<「早く完成する」

を選択したのと同じ。

つまり....出来栄えが良いはずがない。

ことなのに....その判断が焦るがゆえに出来なくなってしまう。

んだろう...

 


あはれ...というか...おろか....というか

古典の題材になるような男だ。

ま、アホなんだろう。

 


人生遅まきになって....

アホのまま終わりたくない。

という人並みな感情が芽生えてきているらしい。

「なんとかできねえのか、その容量の小さな脳みそはよ」(麻生談)

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今となっちゃあ自分でも不思議なんだけれど....

20年ほど前まではメモを取るような生活じゃあなかった。

 


「頭が良い」と自信を持っていたからじゃない。

頭に入る程度の予定しか必要としなかったからだ。

 


が、井戸の中が全てだと思っていたからこそ「それで十分」だと思っていただけのことで、井戸の外を見てしまったらば....

 


....そんなところから、我武者羅に予定や所用を増やしてみたなら...

そらもう覚えきれないぜよ....と。

 


頭の中が整理できなくて....数々の大失敗を繰り返し、数々のチャンスも逃してきたんだと思う。

あまりにも用事を抱え込み過ぎて、頭の中が常にパンパンで...

昔で言うなら、小さなメモリとハードディスクが常にフリーズしっ放しで...

それがさらに焦りを生んで....

 


という事態になっていたんだろう。

そこで....地道にメモを取るようになった。

方法は変遷してきている。

パソコンの中、ボイスレコーダーの中、コピー用紙の裏、ダイアリー、ティッシュ箱の裏なんてのもある。

”2chまとめ”ならず”メモまとめ”なんてのもある。

 


そんな生活が20年。

単なる”覚書”もあれば、”今すぐにやるべきこと””今すぐではななくてもいつかやるべきこと”等々、時空と必要度でジャンル分けしたものもある。

もちろん済めば、削除する。

それはそれで非常にスッキリして精神的にも良い。

が、削除されずに残っているものは、もはや見返せないほど膨大になっている。

 


一応....

主軸としているメモ達があり、それらだけは月に何度か見直すようにしているが、それ以外の覚書は「二度と見ることの出来ないメモ」になっていて、そりゃまメモの意味が無いだろう状態なわけだ。

 


暇な時に整理すれば....と思われるだろうが、そんな時にじくじく独りこもって「自分がかつて書いたメモ」の整理なんかに時間を使いたくない。

いや、そうやろうとしたこともあるんだが....

”過去のメモ”は「今となっては」非常に役立たずな場合が多く、「何でこんなの書いてたの?」ってのに愕然としてしまったりする....

それを...わざわざ見直して...消す...ってな作業に...積極的には時間は使えないよなぁ...とか。

 


残念ながら....これが自分の頭の中なんだと思う。

調子が良かったり、酔っ払って細かなところが見えなくなっているような時は、「問題なし」と大きな気分になっているが

いざフン詰まると、未整理状態の情報の山を前にして何から手を付けてよいものやら呆然としてしまって....

 


とりあえずブログでも書いて一呼吸を置こう....

 


とか、やってんじゃねーよ的行動をとっているんだろう....

 


ここんところの自分はかなり煮詰まっている....上に....「悪い予感」に加え「さらなる悪い予感」がしているのだ。

なんとしても頭の整理を進めねば....

 


そういう意味では....

やっぱり佐川さんは自分とは比べられないほどに頭の容量が大きいのだろう。

もったいないよなぁ....それほどに優秀な頭脳...もう少し違う方向に使えば良いのに....

「悪い予感

 

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...がする」....なんていうと...「縁起まで悪くなるからやめてくれ」と言う人がいる。

が、有名な預言者でもないたこんな私の”予感”程度で今後の世の中なんて変わるわけがない。

むしろ”そんな戯言”と、聞き捨てられないのは....思い当たるフシがあるということじゃないのだろうか?

なら...早くに対処の準備に入れるということにもなるのだから、決して縁起の悪い告知でもないだろうに....

 


でも...悪い。

となってしまうのは、恐らく...”気分が”悪くなるということなんだろう。

そう、誰だって”悪い気分”にはなりたくない。

仮にその先に不幸が待っているとしても、困難の無い人生なんて有り得ないとわかっているとしても...

それでも、”せめて今だけでも”いや”だからこそ今だけでも”「穏やかな時間にしていたい」となるんだろう....

 


が、仮に、悪い予感に蓋をして、感じなかったことにするのは簡単。

そしてわずかにでも”穏やかな時間”を伸ばすことも可能だろうが....

自らの脳裏から消し去った”悪い予感”が不意打ちのように現実となり、困難に陥るなら、「もっと前から準備しておきゃよかった」とはならないんだろうか?

 


”悪い予感”がハズレていたらば、それでいいではないか?

犠牲になるのは、「自分だけの重い気分の時間」だけのこと。

そ知らぬ顔して毎日を送れるなら、誰に迷惑をかけるわけでもない。

とんでもない事態が突然訪れてパニックになって、その後修復できないほどになってしまうより、重い気分で用心していて傷口が浅い方が、長い先には”救われる”ことにはならないんだろうか?

 


つい先日も「悪い予感がする」と言っていたんだが....

それがさらに悪くなる。

さらに期間が長くなる。

そういう予感がする。

個人的なことを言うならば、半年程度の我慢で済むかと思っていたことが、2年いや、3年覚悟しないといけないかな?という事態になるだろうの予感だ。

 


そりゃあ面白くないに決まっている。

決まっているが、私の心境や事情など世の中が考慮するはずもない。

仕方の無いことなんだと思う。

こういうことは。

 


まあ、努力出来ることとしたらば....

「辛そうな顔しない」ってことぐらいいだろうか?

案外単純な対処法しかないと思っているんだが....

これがなかなかに高度な技なんだよな。

 

祭りの後

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断舎離というにはおこがましいが....

7年程前からだろうか、妙に身辺整理をするようになった。

 


それは度々記事にも書いてきているんだが...正直、老後の準備、には早すぎるとは思ってはいるものの、昔よりはやっぱり色々見えてきていて....

”見えてきて”いる...というのも、やっぱりこ”れから先が”、であって、

「もう使わないだろうな」「もう似合わないだろうな」...に、

希望的観測が無くなったことだとも思っている。

 


いや、それほどに落胆はしていない。

むしろ片付いて清々している部分も多いし、圧倒的に”体育会系”だったので、それを捨てる代わりに、そうじゃない世界への興味は膨らんでも来ている。

 


片付けている最中にもニヤリとしてしまったりする。

「よくも今まで持っていたもんだ」とか...

 


それから7年なので、結構捨てた。

流石に足らなくなって買い足したモノもあるが...

以前と同じような見立てではやっぱり買わない。

 


妙なものだが、7年前以前を登山とするなら、7年前からは下山ぐらい景色が違っている。

いやちょっと比喩が悪いな?

7年前以前を祭りの前とするならば、7年前からは祭りの後ぐらいに風景が違っている。

そう、祭りの後の後片付けをしているというところなのだろうか?

少し寂しい気もするが、荒涼としているわけでもない。

淡々....か?

 


かといって7年前に祭りがあったわけでもない。

何もない。

はっきりした現象など何も起きてはいないし、きちんとした境目もない。

盛り上がった形跡も無い、が....

大体そんな頃から”想像できる風景”が変化をしてきている。

 


”そんな風景”に抵抗したりもする。

その結果が今のギックリ腰で、これまた非常に治りが悪い。

これも7年前とは大違いなのだから、余計にそう思わせる。

 


この2日間の休みも少し安静にしていたかったが、時間がもったいなくてあれやこれやと所用をこなした。

今、ひと段落したところなんだが....

こうなると、不思議とさらに整理をしたくなる。

早い話がこれまでのモノを捨てたくなってくる。

変な話、捨てるモノを見つけるために、これからの人生を瞑想したくなってくる。

それはあたかも、暇になるとは死ぬ前の準備を思い出しているような錯覚にもなる。

死に急いでいるつもりは毛頭ないんだが、無意識のうちに老いる準備でも始めているんだろうか?

 


今残されているモノ達は、7年前からの整理で生き残った猛者達だ。

さらに簡単に整理されるような輩達ではない。

でも、やっぱり必要ではなくなっているモノがもうある。

あたかも7年でさらに老化が進んでいるという証のような気分にもなる。

 


自分の人生に”祭り”があったようには思えないが、”祭り”を待っていた、”祭り”を期待していた時期はあったと思う。

それが多分7年前までの”祭りの前”の人生なんだろう。

そして...残念だけど盛り上がりのわかるような祭りはやって来なかった。

やって来ないまま....祭りの時期は過ぎ去った。

そして....7年前からは「祭りは来ないままに過ぎ去った」ことを確信して、後片付けに入った....

ということなんだろう。

 


不思議だし、よくわからないが、自分じゃそんなにも嫌な気分ではない。

一つずつ、一つずつ、丁寧に片付けていくことに、少し充実感もあったりする。

捨てることで”来て欲しかった祭りへの未練を断ち切った”ような清々しい気分になったりもする。

 


なんだろう....

下山にしろ、祭りの後にしろ、勢いのあった時代には、たまらないほど寂しく虚しそうな光景しか想像できなかったんだが....

近づいてみたらば、それはそれで味があるというか、ま、嫌だと思ったところでどうしようもないというか、

それなりの過ごし方があるんじゃないかと....

多分...期待してるから、そこでは登山の用具や祭りの前の気持ちは要らないだろうな、と、整理したくなっているような気がしている。

 


あっ、今日はそう考えただけで終わってしまいそうだ(笑)

選択肢

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久々に暖かな週末だった。

少しは遠出をして遊びに行きたい...などとも久々に思った。

 


が、行かなかった。

行けなかったとも言うかも?

ギックリ腰だから。

 


無理すれば...”景色ぐらい”は見られたかもしれない。

が、無理をしないようにしよう、と思った。

 


さほどに翌週の仕事を重視したいわけでもない。

が、正直趣味が出来なくとも、酒の席で大失態起こそうとも、天気の良い日に外に出られなくても、

ストレスはしれている。

と最近は判断することが多い。

多分次の日には気分が変っている。

が、仕事でトラブルになったらそうは行かない。

そんな気分があったから....ま、よしておこうかと...

 


最近は...体調も仕事優先。

スケジュールも仕事優先。

いろいろなことを仕事優先。

かとって仕事に邁進しているわけでもない。

無駄に労力使うぐらいなら....仕事のために残しておこうか....と。

ネガティブ・チャージング(造語)のようになっている。

その方が...自分の気分が楽だというだけのことなんだと思う。

 


要するに「仕事を犠牲にしてまでやることか?」が一つのライン。

「それと収入とどっちが大切なの?」も一つのライン。

それでくくった時に選べることは、さほどに多くはないということ。

 


昔であれば...それで余暇の行動範囲を制限されてしまうような仕事なら、仕事自体を変えてしまえとよく思ったものだが、それも今じゃ笑えるような次元の話。

となればさらに選択肢は少なくなる。

 


チャレンジ出来ないだけでなく、関わることさえ無理なことも随分と増えてきた。

一見寂しそうにも思えるのだが、「どっちにしようか?」と、迷っている無駄な時間はその分かなり減っているはずだ。

 


時々は、そんなことも白昼夢のように想像してしまうことがあるのだが....

「あっ、考えても無駄だし」

とはっと我にかえって現実に戻ったりする。

 


納得出来ている現状ばかりじゃない。

いや、納得出来ていないことばかりかもしれない。

でも、それを変えてしまおうとする選択肢はもはや貴重なほどに少なくなっている。

「我慢しといた方がいい」

からじゃない。

「もう無理だ」ということがわかっているからだ。

仮に㎜単位の成果しか期待できなくても、数少なくなった”やれること”の中でしか努力することも見つけられないからだ。

 


テレビをつければ「平昌オリンピックでの選手の活躍に勇気をもらえましたよね」と興奮して口泡飛ばしているMCもいまだ居るんだが....

そりゃそれで良いとは思うが...自分は正直”勇気”よりも、”限界”をはっきりもらえている。

羽生君や小平さんは自分の手本にはならない。

年齢も能力も素質も努力も

離れ過ぎている。

自分も同じように考えること自体がもう冷静じゃないだろうと思える。

 


諦め?

そうじゃない。

冷静な判断と思っている。

延々と糠に釘を刺していたくもないし、砕けるまでコンクリートを拳で叩いていたいとは思わないだけだ。

 


選択肢が多かった若い頃は、何もかもに挑戦も出来たが、何もかも成果が出せなかった理由も、少しわかったような気がしている。

若かったとしても、オリンピック選手を手本にするほど自分には能力はなかった。