小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

選択肢

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久々に暖かな週末だった。

少しは遠出をして遊びに行きたい...などとも久々に思った。

 


が、行かなかった。

行けなかったとも言うかも?

ギックリ腰だから。

 


無理すれば...”景色ぐらい”は見られたかもしれない。

が、無理をしないようにしよう、と思った。

 


さほどに翌週の仕事を重視したいわけでもない。

が、正直趣味が出来なくとも、酒の席で大失態起こそうとも、天気の良い日に外に出られなくても、

ストレスはしれている。

と最近は判断することが多い。

多分次の日には気分が変っている。

が、仕事でトラブルになったらそうは行かない。

そんな気分があったから....ま、よしておこうかと...

 


最近は...体調も仕事優先。

スケジュールも仕事優先。

いろいろなことを仕事優先。

かとって仕事に邁進しているわけでもない。

無駄に労力使うぐらいなら....仕事のために残しておこうか....と。

ネガティブ・チャージング(造語)のようになっている。

その方が...自分の気分が楽だというだけのことなんだと思う。

 


要するに「仕事を犠牲にしてまでやることか?」が一つのライン。

「それと収入とどっちが大切なの?」も一つのライン。

それでくくった時に選べることは、さほどに多くはないということ。

 


昔であれば...それで余暇の行動範囲を制限されてしまうような仕事なら、仕事自体を変えてしまえとよく思ったものだが、それも今じゃ笑えるような次元の話。

となればさらに選択肢は少なくなる。

 


チャレンジ出来ないだけでなく、関わることさえ無理なことも随分と増えてきた。

一見寂しそうにも思えるのだが、「どっちにしようか?」と、迷っている無駄な時間はその分かなり減っているはずだ。

 


時々は、そんなことも白昼夢のように想像してしまうことがあるのだが....

「あっ、考えても無駄だし」

とはっと我にかえって現実に戻ったりする。

 


納得出来ている現状ばかりじゃない。

いや、納得出来ていないことばかりかもしれない。

でも、それを変えてしまおうとする選択肢はもはや貴重なほどに少なくなっている。

「我慢しといた方がいい」

からじゃない。

「もう無理だ」ということがわかっているからだ。

仮に㎜単位の成果しか期待できなくても、数少なくなった”やれること”の中でしか努力することも見つけられないからだ。

 


テレビをつければ「平昌オリンピックでの選手の活躍に勇気をもらえましたよね」と興奮して口泡飛ばしているMCもいまだ居るんだが....

そりゃそれで良いとは思うが...自分は正直”勇気”よりも、”限界”をはっきりもらえている。

羽生君や小平さんは自分の手本にはならない。

年齢も能力も素質も努力も

離れ過ぎている。

自分も同じように考えること自体がもう冷静じゃないだろうと思える。

 


諦め?

そうじゃない。

冷静な判断と思っている。

延々と糠に釘を刺していたくもないし、砕けるまでコンクリートを拳で叩いていたいとは思わないだけだ。

 


選択肢が多かった若い頃は、何もかもに挑戦も出来たが、何もかも成果が出せなかった理由も、少しわかったような気がしている。

若かったとしても、オリンピック選手を手本にするほど自分には能力はなかった。