小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

みみっちい欲張りの話

f:id:okutavianus:20180929122048j:plain

 


”心の専門家”のような方々は、「あまり自分を分析したり、突き詰めるようなことは”やらない方が”よろしい」....と言うんだけれども....

サーシャコーチの居ない大坂(自分)としたらば....

いやさ、サーシャコーチ(自分)も大坂(自分)も兼用して生きている自分からしたらば....

選手(自分)の心理状況や判断基準をコーチ(自分)が「知っておくこと」は、成功に導く上で重要なファクターになるんじゃないのだろうか?

 

 

いや、さほどに大袈裟なことでなくても....

「どうして俺はそう考えてしまうんだろう」...やら

「どうして俺はそういう行動をしてしまうんだろう」....ということを”普通に”やっぱり知りたくなってしまう。

ゆえに”自分自身の探求”なんて大袈裟なことじゃなく、”それ”知ってないと自分のコントロールもうまく行かないんじゃないの?と思うんだが....

 


そんなところから....自分の人生を振り返ってみても....大きくブレてきた割には....実に”中途半端”な結果に至っている.....と分析している。

決して望んではいないのに...

が、それは見方を変えるなら....上手に”危険水域”を回避してきて平平凡凡な日常に到達している....という見立てもできるんじゃないかと思っている。

いや、それは多分自分だけじゃなく、多くの人の特徴で...それを”平凡”と呼ぶような気がするんだけれども....

 


相反する性質の共存とでも言おうか....矛盾した性質の共存を保持することで人は中庸になっている。

いや、中庸を保つことが出来ている?

 


例えば隣の芝生なんか青く見るべきじゃないと戒めつつも....本音では非常に青く見えてしまっていたり.....

無駄遣いはもったいないと口うるさく言っている癖に....そんな自分を妙にケチ臭く感じる日があったり....とか....

が....”ゆえの”中途半端でもあるわけだ。

 


いちいちそれらの境界線なんか考えて行動してはいないのだろうけど....

”それらの基準”...は曖昧どころか、”基準”すら自分自身でわかっていない場合が往往で....そんなアバウトなところからの”判断力”だったりすれば.....

そりゃもう自分の中で正誤の判断も、善悪の判断も、行き当たりばったりとさほどの違いはなく、それじゃ適切な結果には辿り着けないはずだよな、とか....

 


その上で、一つ自分を擁護してやるならば....

”矛盾の存在”というよりも、「一方に偏りたくない」というのはあるのかもしれない。

が、それは....非常に”中途半端”にも陥りやすい気質だとも言える。

あっちも良いけど、こっちもね....

という気質なのだ。

 


しかも....「こっちだけ全部」じゃない。

一つずつでいいから、あっちも、こっちも、そっちも、たくさんの全部の種類が欲しいのだ。

「いろいろな幸せが欲しい」

と言い換えられるのかもしれない。

 


みみっちい欲張りの根性だ。

 


しかしながら、残念なことに振り返っても思い当たるフシが少なくない。

勉強が出来る子と思われたい時もあったなら

スポーツが出来る子と思われたい時もあり

やんちゃな子と思われたい時もあったれば、

スマートな子と思われたい時もあったりして.....

同一人物の成せる業かと思われたりする....

 


仮に、相反する能力であってさえも、欲求が出てきた時には....

「全てのこと」で合格したい.....と望んでしまう性質だと言うことだ。

ただ....救われる?のは、全部世界一になろうというような野望はないということ。

 


でも....部活から帰って疲れ果ててでも勉強した記憶はない。

素直に眠ることを優先してきた。

あれもこれもと望む割には、それほどには頑張りたくはないと.....

つまりほどほどの頑張りで到達できる程度でいいと....

しかも....本当の実力を身に付けなくとも....”思われる”程度が身に付きゃそれでいいと.....

 


「エエーッ。そんな自分嫌なんだけど....」

と思ったところで、分析の結果は....

それが自分。

と言うことだ。

 


事実ではない自分の希望通りの気質の自分は”願望”と言う。

それは分析なんかしなくても、夢の中でも創作できる。

そして....何の役にも立たない。

そんな時代が長過ぎた。

 


されど今更ながらに中途半端な自分から生まれ変わろうとしたところで....(ってかもう無理だ)

中途半端な自分を満足させる努力の方が現実的だろと。

いやさ百歩譲るなら、中途半端な自分を満足させてから中途半端な自分から脱却しても遅くはないだろうと....多分、その頃には死んでいるんだろうけど(笑)

 


そういえば....

かつてはもう少し高み、上を、多くを、大を、目指していたようだ。

そのような残骸がいくつもある。

が、それらは現在の自分には分不相応で、正直重荷になっている。

いわゆる”大き過ぎた俵”というやつだ。

 


かつてはそれでも”我慢した末のサイズ”だったのに.....

それが、今じゃ大き過ぎるとは....

それぐらい”中途半端の間”でも揺れているわけだ。

そりゃあ中途半端過ぎるぜよ、と。

 


中途半端な人間のくせして....

目標だけが立派だなんて.....目標だけが格好いいなんて....

そりゃあ達成は無理というものでしょう(半笑)

 


やっぱり目標も中途半端な人間にふさわしい中途半端なものでないと.....みっともないんですが....

 


自惚れてはいけない。

けど、さぼってもいけない。

立派なことも言えない。

これもまた実に中庸。

でも、自分はそういう人間。

そういう結果を残してきてしまっている。

それが嫌だから、あの時こうだったら....とか、この時こうだったら....と想像するんだが....

後々後悔する”中途半端な”結果を選択してきたのは

自分だ。

 


そんなところなのだ。

謙遜でも自虐でもなく、事実がそうなのだ。

であるならば....

「そういう自分だ」という確信からスタートした方が成功への精度も高い、ということ。

そう、当然ながらにその”成功”も中途半端な成功なんだけど(笑)

 


いいじゃねえか、中途半端な成功でも。

極端な”失敗”よりは。

 


見栄張っちゃいけない。

張りたいのなら、言葉じゃなく結果で見せれば良いだけのこと。

中途半端な目標すら達成できていないくせして大きな庭の芝生なんて気にしてる場合じゃないということ。

人体実験からの今のところの結果考察

f:id:okutavianus:20180924102936j:plain

 

 

そもそもが...ダイエットを目的としたトレーニングが実験の始まりだったので、それほどの効果を期待していたものじゃあないんだが....

まあそこから色々と実験の幅を広げてみた結果、「わかってきたこと」ってのは案外”意外”な結果だった。

 


レーニングの開始当初は「ゼロからのスタート」と言っても良いぐらいだったので、そりゃあ何でもかんでも上達しているように....感じるわけで....

「俺ってもしかして、努力してたらもっと違った人生あった?」

ってな気にもなったりした。

 


違う種目のスポーツだったり、勉強だったり、資格取得に励んでいたらば.....

官僚だったり、スターだったり、有名人だったり....とか...

 


馬鹿な自分はそんな”有り得ない妄想”に気を良くし、さらに努力の幅を広げることにはなるんだが....

いずれ天井は頭打ちになった。

しかも....案外低いところで。

 


けっこう高度な資格試験を2点足りなくて落ちたことがある。

「普通、浪人受験が当たり前だから、来年なら絶対だよ」

と言われたが、なんだか”違う”と考えた。

 


能力あれば一発で受かっている。

それぐらいの余裕を能力と言うんだろうと...

ギリギリで受かったのならともかく、ギリギリで滑っている。

そこいらは偏差値の分布が集中するところで、1点差にも密集しているわけだ。

つまり....順位の差からしたらば「たかだか2点」じゃない。

自分の能力の順位は「その位置」なんだと。

 


順位とか、能力とかはよくピラミッド型の図形で表される。

そりゃあ”上”の方でありたい。

いや、「やれば出来る子」と長年自惚れてきた自分なので、努力さえすればけっこう”上”なのかもしれないと....

期待していたわけだ。

 


まあ、さほどの努力でもないと思うんだが....

でも、いくつかの挑戦をしてきて....

「上」じゃないんだということはわかってきた。

というか....ひょっとして?と思っていたほどの「上」からはほど遠いということがわかってきた。

 


人体実験の始まりの頃の....

「努力すれば出来るかも?」は、

残念なことに....

「努力していないと、出来なくなるかも」になっている。

それは言い換えるなら、努力していてようやく人並み?

なのに....努力でピラミッドの上部に行こうなんて....厚かましいにもほどがある。

ということを思い知る努力になっている....というわけ。

 


それがどんな効果を生みだすのか?

プラスなのかマイナスなのかさえもわかっちゃいないと思うんだけど....

 


ともかく下の方なんだから....

何かやってないと沈んでしまうだろうと....

だから毎日あがいているのかもしれないが(沈みかかって溺れているのかもしれない)

ともかく、そのあがきで、なんとか浮いていられてるんじゃないか?

とは思っている。

 


人体実験を続けてきて一番大きく変ったのは自分への評価だと思う。

残念な結果なんだけれど....

妙に落ち着いてはいる。

人体実験の話

f:id:okutavianus:20180922104722j:plain


結局のところは...

自分の身体を通して、人体実験をしているような日常になっている。

先回の十投資のところでも書いたんだけれども...

見たくはないんだが、見ないようにはしているんだけれど.....どっかで、自分の醜さやずるさや姑息さを炙り出そうとしている。

炙り出したいと深層心理で思っているようなところがある。

 


それがどうしてなのか?

どこからの欲求なのかは今のところ自分じゃわかっていない。

テレビに出ていらっしゃる精神分析医?のような方々なら見事に解明していただけるのかもしれないけれど....

解明していただく必要は感じていない。

 


面倒臭い習性のようには思うけれど....

これはこれで努力への足がかりとなっているような気もして....

というか人体実験の意識が無かった頃には努力なんかの必要性を感じていなかったから、

必要悪の習性のようには思っている。

 


今にして思えば”トレーニング”がその入口だったか?

運動に関してはかなり自惚れていたこともあり、たまたまの運動不足が続いていただけで、すぐに復活できると思いきや....

そうではなかった....だけではなく、けっこう年齢が来ていたので、故障だの疲労だのを考えつつのトレーニングを余儀なくされるようになっていった....

「どこまでなら耐えられるのか?」

「楽過ぎても効果はない」等々

まさに人体実験のようなトレーニングだった。

 


ある程度の専門分野に居たこともあり、書籍に頼ることはあまりしない。

むしろ、人のカラダのことよりも、自分のカラダが一番ダイレクトに感じるのだから、そこが最短で最大の資料のはず。

イチイチそんな面倒臭い解釈はしていないが、まあストレートに考えてもそうだろう。

自分でメニューを決め、負荷を決め、回数を決め、そして結果を”感じる”

そんなことをもう20年近くやっている。

ある意味....

人のカラダの感想を参考にしてトレーニングを計画されている方よりも、”自分のこと”は把握できていると思う。

 


そういう積み重ねからか....

いつの間にか自分の行動の多くが、人体実験のようになっているのかもしれない。

投資だけでなく、仕事でも、交遊でも、展示会でも展覧会でも、曲をダウンロードすることも、飲み会も、ネットも、ブログも、ともかくやってみる。

 


ただ、これだけ多様になってくると、24時間で全部はやりきれない。

だから今のメニューに留まっているだけで、時間があるならさらにいろいろなことをやってみたい。

そこで、「どこまで出来るのか?」を知りたいわけだ。

 


ということは同時に「どこまでは出来ない」というラインを見つけるということでもあり。

それには当然「失敗のライン」を知らなければならないということになる。

ちょっと格好つけた大袈裟な言い方をするなら.....

「失敗のラインを自分の身体に刻み込まなければならない」わけだ。

 


すれば....それは人体実験のようなものになるのかな?と。

別にMではないと思っている。

けど....

ここまで生きてきたのだから、他の誰かよりも、自分のことを知りたいわけだ。

どれだけ卑怯なのか?とか(笑)

 


それほどにも卑怯だとも思っていないけど....いい格好して隠している卑怯さはあるだろうと、意地悪に自分を試してみたいわけ。

現実の世界の他人様に、格好つけて接しているほど本当の自分は格好よくないだろう、と。

後輩達に偉そうにうんちくを垂れているほどには賢くないだろうに、と。

 


お前(俺)の正直なところの能力は?

お前(俺)の正直なところの優しさは?

お前(俺)の正直なところの精神的耐久力は?

お前(俺)の正直なところの妬み根性は?

お前(俺)の正直なところの歪みは?

お前(俺)の正直なところの憎しみは?

 


まさかそんなにも自分が醜いなんて思いたくもないからに....

自分にも気が付かれないように隠そうとしている部分があるはずだ。

でなきゃここまでもっとうまくいっていた。

いっていないのは....人のせいではないのだね。

 


というところから....

盛っていない等身大の自分をはっきりさせないと。

把握しないと。

どこから何を努力すればいいのか?なんてわかるわけねーじゃねーか。

 


という自分自身への企画のようなもの。

今のところその中心に仕事があり、トレーニングがあり、庭仕事があり、投資があり、家族があり、交遊があり、趣味があり、ブログもあるということ。

 


大きな具体的目標はいまだ見つかっていないけれど....

等身大の俺ってどんな程度?を知るのはひょっとしたら一つの目標になっているのかもしれない。

 


さあ、雨も上がってきた。

嫌で嫌で仕方がない草抜きに参ろうか....

嫌で嫌でやりたくもない草抜きに出向いてしまうのが、等身大の自分だということ。

 


そんな細かな人体実験を毎日繰り返しているということ。

何の成果も出ていないようだけど、昔より少しは盛っていない正味の自分の力は把握できてきているかな?

それが何の役に立つのかもわからないんだけど(笑)

投資についての話

f:id:okutavianus:20180921173742j:plain


自分もうまく行っていないが....家族も困難に次ぐ困難になってきて....

これまでの自分の行いが災いにつながっているのか.....と反省したりもするんだが....

落ち込んでいても道が開けるわけでもないので....

少しはずれた話をしようと思う...

 


"投資"という言葉があまりにもポジティブなイメージとして語られることには疑問を抱くが....

資本主義社会を標榜するのであれば、そのエンジンになっていることは間違いない。

いや資本主義社会を表明しない国家でさえ、経済の主力は普通は投資に頼っているはず。

だから”投資”は全く否定しない。

 


が、そんな中で、どっかの誰かが「貯蓄より投資」とか言ったが、その比較はおかしいと思っている。

貯蓄は貯蓄、投資は投資だ。

投資を貯蓄と同次元で考えさせるから悲惨な事態が毎年起る。

”極論”などではなく根源的理論からして、投資は「元本割れすることがある」のではなく、「失敗することがある」ということだ。

 


株式市場からリタイヤしたかつての大企業を見ればわかること。

いやさ山一證券など、投資を扱うプロが倒れてしまって....大量の「ゼロ」を生み出してしまうことも「投資」の本当の姿だ。

”増え続ける夢の投資”は投資の一面でしかない。

 


そう思うに至るにもけっこうな時間がかかっている。

大したことのない投資経験だが、年数だけは30年も超えているし。

失敗も....哀しいかな数知れない。

 


からなのか.....”投資の成功”からは学ぶことはあまりないように思えてしまう。

せいぜい舞い上がるか自惚れるかがいいところ。

 


それでも、続けているのは....

「自分が試される場」....「いや、自分の程度がわかる場」がフトした拍子にやってくるところの妙味ってのがある。

 


若い頃は金額は少ないものの有り金の全額をも投資に充てていたことがある。

それが見事にバブルの崩壊に遭った。

投資額(有り金)はみるみるうちに1/4になった。

しかも....人間そうなると「取り返したくなる」

そうなると借金こそしなかったが....貯金の出来ない生活を続ける結果になってしまう。

 


ここでも投資と貯蓄は同次元ではないことを証明している。

当たり前だ。

金を使わず置いておくことと、金を使うことは真逆でさえあるから。

同次元で扱うならば....消費と投資のどちらを選択するの?だ。

無駄な消費に使うぐらいなら投資。

そういうこと。

少なくとも自分は。

自分だけでも。

 


精神に支障をきたさないほどの少額であれば、感情の変化もつかみにくいかもしれないが、ある程度の額になってくると、価額の上下による感情の変化が見事にわかる。

上がった時は良い。

高揚し、気分もよくなり、機嫌も良くなる。

しかし、それが自惚れを呼び、知らぬ間に足は浮いている。

 


一方下がったとなるとそれを楽しく思えるわけがない。

さらに下がるなら、他の生活に何の不備がなくとも不機嫌になる。

もっと下がると不安も出てくる。

もっともっと下がるなら動揺を抑えられなくなる。

そうして何日も暴落し、やがて価額を1/4にもしてしまうなら....

動揺どころか狼狽が始まる。

心は全く健康からはほど遠くなっている。

 


人間は?はわからないが、自分は、

調子の良い時には、多少は度胸があるかもしれない....と、思ったりする時もある。

我慢強い...一面もあるのかな?とか、思ったりする時がある。

決断力がある....とかも、思う時がある。

思い切りだって悪い方じゃないかも?とか思ったりもするかな?....

 


が、調子が悪くなると、良い時には気が付かなかった異常に”ネガティブな自分”を見ることが出来る。

こんなにも弱い部分がこんなにもたくさんあったのかと.....

こんなにも臆病だったのかと....

未来さえ真っ暗になるぐらいならやめておけばよかったと後悔するのかと.....

あれだけ得意満面だったくせして....翌日には昨日に戻ってやり直せるならば....とか....

そんな自分の能力の低さや程度の低さや精神のモロさや弱さや......醜さを......

 


やっぱり金がかかっているからか、そうでない時には抑えられていて格好つけたこと言っておられる感情が....

醜いほどに歪んでしまうことが手に取るようにわかるのだよ。

何十時間も、何ヶ月も、ヘタすりゃ何年に渡っても....

”改めて”思い知ることが出来るのだ。

出来なくてもいいのに。

 


精神力だけの問題じゃない。

金額も当然に影響する。

なので「いかに儲けられるか?」は案外基準になっていない。

「どこまでだったら耐えられるのか?」

それが自分の投資の基準。

極めて精神的な基準だ。

なんだかおかしいんだけれども。

 


孫さんや堀江さんや最近話題の前澤さんには、能力だけでなくクソ度胸も備わっているのだろう。

が、自分は全く無理。

生涯そのようなことをもう思うはずもないぐらい、何度も打ちのめされているので、いい加減わきまえているつもり。

 


もちろんお金を増やしたいから投資に手を出しているんだが....

むしろ.....どこまで耐えられるのか?ってな肝試しをしている意味合いのが強いのかもしれない。

 


随分高い肝試し代なんだけれども....

 

努力への入口が見えるという話

f:id:okutavianus:20180920114643j:plain

 


石田徹也氏の絵なんかに共鳴していると.....

「ちょっと精神的にダイジョウブか?」....と、思われるかもしれないが....

多分....大丈夫。

 


また....”暗い話”を書いていることも多いので...深刻に悩んじゃっているのか?と思われるのかもしれないが....

真剣に考えることはあっても、深刻じゃないと思う。

 


かといってフザけているわけでもなし。

自分なりにモノを考えるに当たっては「”願望で装飾しない現実”の上で冷酷に思考すべきだ」と言い聞かせている....からの現れだと思っている。

 


反動と言ってもよいと思う。

毎日明るく楽しく過ごせていればいいや....としていた頃だって、実は不安も、不信も、不遇もちらちら見えていたはず....

ただ....まともに向き合うことに耐え切れないの予感からか、単に気が滅入るからか、重い気分を抱えるのが嫌だからなのか?

「世の中は気の持ちようなのだよ。どんな辛い境遇だって、気の持ちようで明るく、楽しく、過ごせるんだよ」という....”蓋”をしていた...

ことへの反動...というか反省があるんだと思う。

 


見えているはずの水漏れを、感じていたはずの傷を、

蓋して気が付いていないフリで時が過ぎれば....

自然に消え去っているのかと言えば....むしろ”穴”は育ってしまっているんじゃないのか?

放置ってそういうもんだろう。

 


これは正しいとか悪いとかの問題じゃなく、

自分がこれまで生きてきた人生からの訓示のように受け止めている。

実際そうだったし、そう反省しているし。

 


だから....穴ぼこや水漏れに向き合おうとしているだけのこと。

できれば小さなうちに見つけてしまおうと思っていること。

 


毎日毎日日課のように欠点や支障を探してばかりなので、そりゃあ楽しくはないけれど

不思議なことに、うそぶいて明るく楽しく振舞っている時よりも不安は無いと思う。

本当は知っているのに隠している方が心は落ち着かないだろうし。

 


ってか、この習性を維持し始めてからもけっこうになるので....

不安を抱えていること自体が自然体というか、常時不安と同居しているので、楽しくはないけど、暗くもなく、至ってその状況が”普通”になっているだけのこと。

書いているほどに怯えているわけでもないというのはそういうこと。

現実の周囲はこのような覚悟で生きていることを多分知らない。

バレないようにしているというよりも、こんなこと誇張したらば気持ち悪がられるだけなので(笑)

むしろ、普通よりは明るい人だと思われている....と思う。

 


自分だけじゃないとも思っている。

少なくとも石田徹也氏には”そう見えた”現代の光景の中に生きているのだ。

気持ちの良い光景じゃないし、まさかの自分もその一部?ってなことを思えば失望するのかもしれないけれど....

否定したい気持ちはわからんじゃないが....

じゃあ「どんなお花畑にでも過ごせていると思っているの?」

ってなところか?

 


自分は否定するよりも、リアルな現実を受け止めたいと。

そこをベースに考えた方が、少しでもマシに現実を変えてゆけると。

不思議なことかもしれないが、石田徹也氏の絵は、失望への到着ではなく、自分の場合は努力への入口になっている。

いつかはやっぱり管から昼食取らない立場になりたいかな?とか(笑)

石田徹也に見つかりたくない話

f:id:okutavianus:20180917164448j:plain


悶々とした毎日だ....

とは書いているものの、かつてのように....

休日とはいえ昼間からビールを飲んだり、半日寝たままで過ごしてしまったり...はしていない。

 


別に強く心がけているつもりもないんだが...

ある程度はクセがついてきたということかな?と思っている。

 


”仕事”は当たり前。

仕事以外の用事としては...トレーニング、庭の手入れ、車の清掃、服の整理、その他の用具の整理、飲み会、投資、趣味、そしてブログの更新、などなどがある。

かつてはこれに”資格取得の勉強”とか、とある”スポーツの練習”があったんだが....

そこまでこなすのには余裕が足りなくなってやめている。

やめていて....まだ余裕を感じないのだから...復活もないように思っている。

 


別に「一生懸命頑張っていたい」なんて望みがあったわけでもないんだが...

先回の話にもあるように....「ふら~っと一歩踏み出してしまった」ことからこうなってしまっているだけのこと。

 


ただ....

歳なんだろうか?

全部を続けられなくなってきた。

全部こなそうとすると....何かをおろそかにするようになってきたり、あわててミスをしたり、妙にイラつくようになってきた。

そんなぐらいならやらなくてもいいのに...ぐらいに。

 


はてなを見ていても、もう少し皆さんキッチリやっておられる。

丁寧というか、しっかりというか....

自分は.....まさに”やっつけ仕事”だ。

あれもこれもと手広くやっているかのようにしているが....ひょっとしたらば何も成果が出せないほどに雑なのかもしれない。

 


最近はそこんところを少し意識してみたりして....

フト見直したりもしてみるんだが....

やっぱり”慌てて”いる。

そんなにも慌てなくても良い場合にも....慌てている。

言い方を変えるなら”焦っている”。

 


誰も急げとは言っていない。

むしろ....

来週でもいいよ....

そんなにたくさん抱え込まなくても....

いやそこまでやらなくても....

そう言っていただけることの方が多いんだが....

勝手に慌てている....

そして....疲れている....

 


なんなんだろうなぁ....

レーニングの仕上げにサウナに入ることも多いんだが...サウナの時間さえ思わずカウントしていたりする。

多分....くつろいでいるのは、ビールで脳を麻痺させている時間だけのような気もする....

 


こんな状態だ。

何かの目標があるとか、計画があるわけじゃあないんだが....

「サボってちゃいけない」

「できるだけたくさんやらなければいけない」

「行動こそが結果につながる」

ってな上等な決まり事を気にしてか?

きっと自ら....ってわけじゃなく...

何者かに背中を押されて....

自分が動かされているようだ...

 


休むことなく動いている割に、少しもポジティブな心境じゃないのはそういうことなんだろう。

多分...

石田徹也は俺みたいな人間を見つけては、これ以上ないぐらい”写実的”に描いてみようとしたんだろう。

 


あんな風に描かれたくない俺は....

石田徹也に見つからないように....

焦って、急いで、逃げるかのように、行動にしがみつこうとしているんだろう。

 


そんなこと書いているうちにも、新たな”やるべきこと”が出てきてしまったりして....

資料作りを始めている。

 


もう癖なのか?

 

 

(画像はどこかのサイトから拝借しました。問題あれば削除します。)

思わず一歩踏み出していた話

f:id:okutavianus:20180915114521j:plain


学年最下位という貴重な称号を頂いた割には....ありえないほど幸運に生涯安定と言われるような職業につけられたんだが....

それをも案外簡単に放り出してしまったからには...どん底の生活になっていても仕方のないところ....

飄々と普通の生活(自分ではそう思っている)を送っているので、よほどの決断や見切りが良いかのように言われるんだが....

そんなことは”絶対に無い”。

本人の感覚としては、むしろ....決断の機会が過ぎてしまって....”流されるまま”....の結果なので、”それ”を情けなく思うぐらいだ。

 


最近は2世タレントとか、2世議員がよく話題になるのだけれども....

それも失礼ながら案外似たようなもんじゃないかと思ったりもする。

 


”才能DNA”を否定するつもりはないけれど....その”才能DNA”とて、環境が開花させることは多いんじゃないだろうか?

例えば....体操選手の子供であったりすれば....

親の仕事場についていったりして....

自然とマットの上で転がったりもするから、早々と才能DNAが芽生えて行く....というように。

なので、ピアニストの子供であったりしたらば....指を怪我してしまいそうな場所を、少なくとも子供のうちは遠ざけてしまうぐらいの”違い”があって...他の芽も育ちにくいと。

自然の純粋培養の畑が用意されている....ように。

 


生まれた時から2世としての覚悟を持ち、才能を自ら育てて行くというよりも、”あえて”ではなくともに、親だけでなく、その周囲もが、無意識のうちにも様々な蜘蛛の糸を垂らす様相となり、

本人が、大した決意を持つこともなく、気が付いたらけっこうステージが近くに来ているとか...ってな感じではないのだろうか?

 


自分には....そんな大それたステージはなかったけれど...”目標”を決めて、”覚悟”を決めて、今があるわけじゃない。

前にも書いたが元々まずは”目標”を持ったことがなかった。

いや、”運動が学校で一番に”とか、”誕生日が来たらすぐに免許を取る”....のようなどうでもいいようなくだらない目標は持ったことがあるが....

人生の分岐点になるような目標は持ったことがない。

というか....避けていたんじゃないかと思う。

真面目に考えたり、悩むのが嫌で。

 


見た目、明るく楽しい人生を送っては来たようなのだけれども....

実態はネガティブだったんじゃないだろうか?

決断を避けてきたということは。

 


そりゃあデートのコースを決めるような”決断”ぐらいは重ねてきたけれど....

それだってどっちかと言えば、ほぼ”的外れ”な決断ばかりだ。

それぐらい目利きが利かない。

いや、利くならば、今頃もっと成功している。

 


....の連続の結果が”今”なのかとは思っている。

つまり....大した”決断”をしてこなかった人生だ。

 


ただ....それでもどうにかなっている理由があるとするならば....

”思わぬ一歩を踏み出してしまう性質”のおかげかな?とは思う。

 


「清水の舞台から飛び降りる」ような決断なんかしない。

清水を借りるなら、あまりよくない表現だけれども....

ふら~っと、吸い込まれるように落ちてしまうってな感じか?

それでも何故だか三年坂あたりに着地していて....

「ま、ここも悪くないか....」のような人生な気がする。

 


三年坂に到達することだって、下から登ってくるならば、それなりに大変なんだろうけど....

別の場所から思わぬ方向に一歩踏み出したことで、違う環境に入ってしまう....というような....

 


”ふら~っと”の例もしょうもないものしか思い浮かばないんだが....

帰りの新幹線での読み物が無かったから手にした資格入門本だったり、立ち読みで見た赤本だったり、失恋を癒すために見た映画だったり、

....そんなことらから、大した決断でもなくふら~と一歩踏み出してしまったことが....

けっこう”転機”になっている。

 


少し歳を取り過ぎてはしまったけど....

その前兆はいつも”悶々”だったかもしれない。

なんだか上手く行かないことばかりで悶々としている時に、ふら~っと踏み出してしまう一歩から、気がついたら、別の場所に来ていたってな....

 


残念だけれども、自分の場合は、”悶々としているところから決断の末の脱出”ってな格好良い転機は無かったようだ。

ただ、ふら~っと踏み出してしまう一歩からの思わぬ展開はあったようなので、今後もそれぐらいは期待してもいいかな?と。

 


いう話。