小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

気持ち悪いブログの話

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相変わらず悶々とした毎日を過ごしている。

なので”正直なことを書くブログ”としては悶々としたことしか書けていない。

目にする方々に申し訳ない気持ちもあるので、更新期間は空けるようにしているが、それでもスタイルを変えようとも思っていない....話。

 

 

「ブログばかりでなく、SNS全体として、”公開している”以上は、目にする方々の気分にも配慮すべきだ。」

との声に、同感する部分もあるんだが.....

実際にやっている自分とすれば....

「もう少し自分中心であること」をお許し頂きたいものだ。

 


自分の見る限り....

現実の社会では、大体の人は周囲に配慮しておられる。

気分が悪くなるような暴言を吐いたり、行為をする人は、どちらかと言えば珍しい。

自分だってそう。

 


そう、一応我慢しているのだ。

良い/悪い、の線引きは理解しているのだ。

が、正直な感情や思考は、全てそこに収まるのか?と言えばどうだろう?

 


残念?ながら私の場合は”正直”は収まっていない。

 


”そこ”は、思いついてはいけないことなのだろうか?

”そこ”は、考えてはいけない分野なのだろうか?

 


相当に怠け者だということ、相当に汚い心理だということ、相当に卑怯だということ....

そんな気持ちに囚われてしまっている醜い自分が...

「このままじゃいけない」ことだけはわかっているんだけど....

「どうすればよいのか?」がわからない頭の中を、現実の周囲の方々には、迷惑かけずに、自分で解決したいというのは間違っているのだろうか?

 


自分の場合は....間違っていない....とまでは言わないが....

他に方法が見つからないので、ブログで考える方法を実施させてもらっている。

長きに渡って実践してきていると言えるほどではないけれど....それでもまずまずの時間は経過してきた。

あまり芳しい成果は無いんだが...

 


同じよう?と言っちゃあ失礼だが、人に見られたならば明らかに嫌悪感を抱かれるようなブログを書いていらしゃる人は案外少なくない。

押しが強いというよりも、好感持たれないことを承知で書いていらっしゃる感じだ。

いくつか自分も定期的に読んでいる。

で、自分のことをさておいて言うのはなんだが....やっぱり気分は良くない(笑)

でも....これでその人は救われているのかな?とは思う。

現実世界の自分を取り乱さずに済んでいるのかな?とか思う。

本当の自分を誤魔化さず、ちゃんと向き合えている”おかげ”で、何らかの”解決”に近づいているんじゃないかと期待する。

ブログの世界では迷惑をかけているのかもしれないけど....

 


でも、それならそれで、ブログというものが、人々のお役に立っている一面もあるというもので、これ以上人の行儀を厳しく問わなくてもいいように思うわけだ。

 


ここんところスポーツ界の不協和音が恐ろしいほどに集中攻撃を受けている。

こっちが正義で始まったのに....と思いきや、いつしか悪者が逆転していたりする。

下手なドラマより理解が出来ない。

 


ただ....「お前らが言えた分際かよ」ってな奴らが毎日裁いている。

いかにもの”正義”を振りかざして。

そして....不思議なんだが....

あの大相撲の暴力問題はどう解決したんだろう?

あのアメフト部はどう解決したんだろう?

レスリングは?

今度の体操は?

騒ぐ時にはあれほど群がったのに、解決には誰も責任持たんのかい!

そういえばカケイは?モリトモは?

 


世界のことなんか知らない。

が、これがニホンの現状だと思う。

テレビでも、テレビの人らの口調や思考を真似する素人のSNSも、

騒ぐことだけは大得意。

火種を変えて毎日毎日騒いでいるんだが....

燃えがらを

焼きついた道具を

散々いたぶられた気持ちを

拾い集めて未来には向かってくれない。

 


有名な人、注目を浴びた人でさえ、それなのだ。

なら、無名で木の葉のような人生の自分のことなんか、誰も、誰も、救ってくれるどころか、見向きもしてもらえるはずがないというものだ。

哀しくもない。

それが現実だ。

 


であるなら、

誰も考えてはくれないのだから....

例え気持ちの悪い文章を綴ってでも...

せめて自分は自分のことを考えてやらないと。

しかも自分の能力に余分な装飾を施さずに。

 


「世の中は厳しい」って言うじゃない。

厳しいなら、自然のままで、うまく行くわけないじゃん。

何か工夫をしなくちゃ....

 


という話。

贖罪のネタ探しの罠

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例えばスポーツのトレーニングで言うと....”長所”を伸ばすってな指導はもちろんにあるんだろうけど....

じゃあ”短所”はほっときゃいいかと言えば....そんなことは無いはずだ。

ましてや”欠点”であることが明らかであり、直せる可能性のあるものならば...

それは見つけて、解析して、さらに”よりよい未来”に向かおう....とするのはごく普通のことだと思う。

 


じゃあ、その手法は...スポーツ以外においても、自分の未来を”よりよいもの”にしてゆく有効な手順になるはずだ。

...として、それを贖罪という言葉に置き換え、そして時たまそのネタを過去に探しに出かけている。

 

 

が、注意しなければならないと思っていることがある。

というか注意していてもけっこう陥ってしまう穴がある。

 


それは....本来は塗り替えられないから”過去”であり、塗り替えても仕方が無い”過去”なのに....

”反省”に気をとられるために....

いやあまりにも”反省”を追求してゆくうちに....

「こうしていたらこうなっていたよな」とか....

「そこでやめておけば...道を外さず済んだよな...」とか...

ありえなかった”過去”を想像してしまうことについつい熱中していたりするわけだ。

 


その反省というか修正は、過去から言う未来の”今”だからわかること、想像できることだ。

例えば中学校の後悔を”今”省みるならば、そりゃあ多くのことに理想のやり直しも想像できるだろう。

が、当時の未来も見えていない中学生の馬鹿坊主には考えつかなかったから”過去”として”決定された不変の事実”になっているわけだ。

 


猛練習にも諦めずに部活を続けているなら甲子園に行けた....かもしれない...やら、

もっと早くから勉強の大切さに気付いていたらば、東大は無理としても、有名国立大学ぐらいは行けたかもしれない....は、

”今”の判断力やら想像力やら常識があってこそ考えられることで....

つまり....”過去”からさらに人生を積み重ねてきた経験があってこそ判断できるようになったことなので、

それは”有り得ない”「修正された過去の想像」なわけだ。

 


片思いだった娘に同窓会なんかで会い、「私貴方のことが好きだったの」なんて告白されると....

「えっ、だったら告白しときゃ、付き合ってられたんじゃねーか」

というような”やり直し”はバックトゥザフューチャーでもなければ、絶対にありえない”やり直し”だということだ。

 


それを”今”どれだ後悔という努力?をしたとしても、実を結ぶことのない努力なのは明確だ。

まあお互い独身でもあれば、違った形の”やり直し”が無いとは言えないけれども....

 


贖罪のネタ探しはそんなノスタルジックに自分を浸らせることじゃない。

いや、浸ってもらっても構わないんだが....ほどほどにしておかないと....

そんなことに時間を使っていたらば”これから先の未来”どころか”今”だって良いものに出来ないかもしれないというのに...

 


例えば人身事故を起こしてしまったとしよう。

あの角を曲がらなければ....

一旦停止をしていたならば....

信号をもう一度見ていたならば....

後悔したり、反省する具体的なポイントは的確に出てくることだろう。

が、それがわかっても....事故を起こしてしまった事実は絶対に消せない。

 


それと同じこと。

それから先の人生は”事故を起こしてしまった自分”を永遠にひきずって生きていくしか道がないということ。

 


部活が続けられなかったことも

思ったような進学が出来なかったことも

片思いの彼女とも付き合えなかったことも

「こうしておけば...」という”答”が”今になって”具体的にわかったとしても、過去は今からじゃあ1ミリも変えられない.....

という”当たり前の”思考範囲は維持しておくべきだということ。

そして....”その延長”に自分は”今”生きているのだから....どれだけ過去の想像上での修正に力を注いだとしても、この”今の瞬間”までの自分には何も影響しないということだ。

 


贖罪行動の自分なりの規範は....

同じ過ちは繰り返さない。

同じ後悔は繰り返さない。

 


そのために、醜い過去の反省を探しまくっているというだけのことで。

大した時間を使うことでもなければ、自分に都合の良い修飾を加えるものではないということ。

 


残念だけれども、”今”無駄にした1秒とて取り戻すことはできない。

こんなくだらないブログを書いている時間にも、もっと違ったことがやれているだろうことも取り戻せない。

そんなに未来の時間の使い方に神経質になるのも問題なんだろうけど....

それが現実というものだ。

変えられるのは未来の行動と、それに伴う結果だけ。

それはどれだけ年齢を重ねても共通していること。

 


過去への反省へは積極的なのに、最近は未来への努力が億劫だ。

けっこう無駄にも時間を使っていると思う。

きっと”昔の自分”にもそういうところがあって....

「やっときゃよかった」ってな過去を多く残しているんだと思う。

 


多くの反省点を見つけ、多くの贖罪行動もしているというのに....

また新たにも反省点を生み続けてもいるわけだ。

それはもう理屈から言ったらば....

「愚か」というしか無い様なのだけれども....

 


まあ....「愚かな自分」....というのが現実なんだと思う。

もう一つの「努力」への原動力は

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”贖罪”だ。

 


前にも書いているかもしれない。

「過去など振り返ってもどうにもならない」....と、言いつつ、時折”過去”を回帰するのは、”贖罪”の確認のため。

”贖罪”を自分の場合は明らかに努力のための”スイッチ”にしている。

この方法が良いのか悪いのかは精神科の先生でもない自分には判断できないが....少なくとも、贖罪もないかわりに努力もしない、よりはマシかと考えている。

というか....多分...何もなけりゃわざわざの努力なんてしない。

もともとはそういう人間だったので、自分自身が一番それをよくわかっている。

 


そう...若い時に”重荷”を抱えることが辛く、放棄をすることにした。

子供の頃なので正確に覚えちゃいないし、理由なんかもおぼろげだ。

ただ....意外と簡単に、苦しむことも放棄したし、努力も放棄した。

どれだけストレスを抱えずに、いかに毎日笑って過ごせる時間を増やせるのか?などという今からは信じられない路線にアッサリと切り替えた。

そういう実績を持っているからこその自信もあるというわけ。

 


理由なんかどうでもよいが、”心の休養”には良かったのかもしれない。

が、”楽なこと”ってのは恐ろしい。

慣れてしまうと簡単にはそこから離れられない。

なんせ超居心地が良いのだ。

離れる理由でもない限り離れようとはしないいものなんだろう。特に自分は。

ってなことであまりにも長い休養をしていたようだ。


....の癖して願望だけを抱くようになったとしたらば....

しかも案外その願望が大きいとするなら、

そりゃあ虫が良すぎるということになって当然。

 


欲と願望と快楽の贖罪があるわけだ。

芥川龍之介の小説のように。

とでもしないと努力しないかな?と。

 


それだけのこと。

基本努力したくないので、努力するためのキッカケとして変な話贖罪を見つけようとしているということ。

 


贖罪のための努力なので、過去の穴ぼこを埋めているようなカンジ?

なので格好良いどころか、あんまり前向きと言えるスタイルじゃない。

ひょっとしたらうなだれて努力をしているのかもしれない。

 


スイッチが入ってからでも、なんとなくゆっくりと済ませているんだろう。

いまだ追いついているカンジもしない。

周回遅れを走っているカンジ?

夏休みにやるべきだった宿題を2学期にやらされているカンジ?

みんなもう2学期の勉強始めてんのに。

 


そんなカンジで生きているんだと思う。

なので”基本”あんまり楽しい毎日じゃない。

が、そんな”楽しくない日常”になってしまっていることを誰かのせいにしたところで...気が晴れる.....ことでもないし...

なら、もう一度、重荷を下ろした生活に戻るならば....そこも本当に楽しかったのかな?と....

そういったモヤモヤを一言で片付け、行動に移るのに、「贖罪」を便利で簡単なスイッチにしている。

まあ、書いているほどに、堅く、細かく、考えているわけではないけれど...最低限のモチベーションの維持にはなっていると思う。

 


ともかく、浮かれてきたというかサボってきたというか逃げてきた年数は25年ほどあると自覚している。

なら、ここまで20年努力を続けていると....しても....しても....あと5年ほどは足らない。

普通に考えてプラマイゼロにしたいなら、もう5年は続けないと....ね。というわけで、そこもさらに気持ちが重くなるところ。

 


まあでも全てにおいて過ぎてしまったことなので、仕方がないのだよ。

1年サボってきたことはたったの一日の努力では絶対に取り返せない....のだからして。

と、思うようにしているのも、そういうところ。

 


まあ、奇遇にもちょうどの年限なのかな?という気もしている....

カンタンに言って人間は最後までサボれないというか、サボったツケは死ぬまでに精算しなければならないようになっていると。

 


さてさて、5年後は少しゆっくりしたいんだけれども、神様に許してもらえるかどうか........(笑)

書き直し「努力」って...

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ごいさんのコメントに対しての返事が、急いで書いたせいかどうにも中途半端な気がして....

ちょっと書き直しします。

 


「努力」って...その大切さは、習字のお題で何度も書かせるほどに...”大人たち”は言ってきてくれたはずです。

が、残念なことに、はねっかえりだったからか?聞いてなかったのか?アホだったからか?「俺は他人よりも優れた能力を持っている」と勘違いできるDNAを持っていたからか?

ものすごく軽視していた時代を送っていたのは確かです。

 


カンタンに言ってしまうと、5分でも努力したらば一日中努力していたかのように思えたり....

徹夜でもするなら一年中努力したと思えたり....

一カ月も継続できたなら、生涯やり続けてきたように思えたり....

そんなところがありました。

 


なので...人の「努力」さえも軽視するところがあって....

というか「努力」の扱い自体をナメていたのでしょう。

頑張って結果を出せない他人より、頑張らないのに結果を出せる自分が素晴らしい!.....

と、思う人間でした。

 


人間は急には変わりません。

これは俺、間違っているな...と気が付いてきても...沁み着いてしまっているものはなかなか落しきれません。

人生遅まきになってようやく「努力」の大切さが頭では理解できるようになってきても、「行動」や「習慣」は変えられない....

つまり何も変わらない....そんなところでした。

 


が、フトしたことでささやかな「努力」の習慣が始まりました。

受験勉強でさえせいぜい3カ月程度だった自分にとって一年を超える継続は初めてでした。

しかし結果は....期待にはほど遠いものでした。

ここもカンタンに言ってしまうなら....

「努力」は簡単には結果を生まない。

ということになります。

 


思い通りにならないのですから不満は募ります。

おかしなもので、不満を解消するがために「努力」するようになったから、”不満”が募るようになったわけです。

今まで軽い努力とは言えないような”工夫”で軽い結果を出してきた自分にとっては、おかしな心境がはびこります。

それぐらいからでしょうか?

「努力」することや、「努力」の成果を長い目で見てみようか、と、思うようになったのは....

 


今からほぼほぼ20年ほど前ぐらいからでしょうか?

「努力」とはそんなお付き合いです。

 


いまだに大した「努力」はやっていません。

やはり残念ながら小さな頃から沁み着いてしまった性質というのがあるようで、相変わらず苦手なのでしょう。

が、けっこう継続しているものはあります。

それがどれもこれもなんですが....

一時はその成果を感じつつあったのに....

最近ではどれもこれも大したことなくなってきて....

というところなんです。

 


なので自分にとって「努力」は、案外はかないものになっています。

 


ただ....

どんなこともそうだと思うのですが、机上の空論は机上の空論です。

いくらコンピューターの精度が上がっても、実際にやってみないとわからないことは世の中の99%ぐらいを占めているんじゃないでしょうか?

「努力」を体験すると、それが素直に理解できると思います。

妙な言い方ですが、成果の出ない「努力」を継続してきたものにしかわからないことがわかるようになると思います。

それが意味のあることなのか無意味なことなのかはそれぞれの人生観にもよるでしょう。

が、私の場合は、「努力」の成果そのものよりも、成果が出るのか出ないのかもわからないような「努力」を継続してきたものにしかわからないことがわかる、ことに意味はあるように思うようにはなっています。

 


それがコメントへの答えです。

一年継続した「努力」でさえ成果が出ないものなのに、たったの一日頑張ったぐらいで成果を期待するもんじゃないし、それを「努力」と言うべきではないだろうと。

 


と、まあ、偉そうに書いていますが、何度も言うようにあえて、こんなことをブログに書いているのは、自分がそもそもの勘違い人間だからです。

少しばかり頑張ると、一年ずっと頑張ってきた心境になるのは自分です。

大して頑張ってもいないくせに、結果が出せない時に限って残念で、「頑張れたことだけでも意味がある」と自分を慰めているのは自分です。

ただ...そういうことが....

多少はわかるようになってきたことが、「努力」をするようになった、つまりは「努力」の大切さを軽視しなくなったささいな「成果」なのかな、とは思ったりします。

 


私は20年ほど前にようやく始めた「努力」なのですが、それまで何十年と軽視してきたわけで、その間生真面目に努力をされてきた方々も大勢居るわけです。

”その差”に気が付いたのは、20年前ではなく、10年ほど前です。

不幸にして報われていない方も居るようですが、でもやっぱり私とは大違いです。

つまり....努力するようになってからじゃないとその「努力」の差にさえも、気が付かない....と、まあそういうことなんだろうと思います。

 


今の私がうまく行かない毎日なのは、努力不足だった日々の延長を生きているからなのでしょう。

後悔はしますが、深刻には悩まないようにしています。

どうにもならないことなので(笑)

 


「贖罪」と言うのでしょうか、人間ピークに向かって行く時は、力任せの理屈で自分をもねじ伏せることも出来るようですが、人生の峠も過ぎるとマイナスも素直に受け止めた方がスムーズになるようにも思います。

 


徳川家康の遺訓

 


人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。

勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。

及ばざるは過ぎたるよりまされり。

 


は、まさに下り坂だからこそ見えた境地であって、家康といえども上り坂の若い頃には見えなかった世界観だと思います。

 


私には当然ながら家康ほどの能力も努力も精神力もないので、重荷だけが目立つのでしょうが、家康が言うように”このような状況”は死ぬまで変らないようです(笑)

「そうじゃない。楽しく愉快な後半もある。」というような人も居られるようですが....

まあそれは嘘か、誇張か、願望か、

いずれにしたって目を背けているという状況なのでしょう。

 


私は家康の足下にも及ばないのですが、せめて現実と向き合って生きていきたいと、

そう思っているだけのことです。

 


相変わらず毎日うまいこと行っていません(笑)

でも、それが現実なので仕方のないことです。

大したことないけど...少しずつ変えている....

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"jyouhou "って言うのか?

お殿様でもない自分に、整理きれないぐらいの情報が、毎日山ほど届いてくる。

有難いことなんだろうけど....

それこそかつてなら....プーチン様や、習様や、トランプ様にしか届かなかったであろう”海外の”ニュースまで飛び込んでくる。

なんとか48だの、ナントカ46だのは、合計したらばもはや1000ぐらいにはなってんじゃねーの....となると....

そこに....”親戚”だとか”幼馴染”とかが居てもオカシクはない。

 


そんな環境は....幸せなんだろうけど....

”勘違い”しないんだろうか....

あたかも自分が、安倍総理と同じぐらいの情報量を持っているかのように....

 


いやいや、流石に総理大臣はないだろうけど....

辻元清美程度には情報持っているかのような書き込みが溢れているのを毎日見ていると....

庶民が自惚れ過ぎているな...とは思う。

 

 

....早く打たなきゃブラインドタッチの意味ないって....ということで、スピード重視で、物凄い勢いで確実に?間違えながらも、それを都度都度修正しながら打っていたものを...

少しゆっくり目にして”間違い”を少なくして打った方が結果早いんじゃないかと気をつけていること。

 


毎週習慣のように見ていたテレビ番組を、所用と天秤にかけて「今週見なくたって大して困ることはないんじゃないか?むしろ所用を済ませた方が気が楽になるだろう」とパスすることが出てきたこと。

 


筋トレのノルマの回数達成できなくても...故障して結果休んで筋肉量落してしまうよりもマシじゃないか?と注意するようになったこと。

 


全く服・靴買わなくなったこと。

 


趣味の道具を整理し始めていること。

 


まずは仕事から片付けるようにしていること。

 


うなじ、鼻毛、眉毛、耳毛、細かなところの処理に気をつけるようになったこと。

 


ギリギリまで時間を使わず、余裕を残して早めに到着するようになったこと。

 


....カンタンなことなんだけど....今まで疎かにしていたというか、あまり気にしていなかったけど....案外これらでつまづいていたようにも思えてきて....

少しずつ、どれということなく、気が付いたものから、一つずつ、一つずつ...”これまで”とは変えている。

 


なんてことはない...ことなので....「なんだソレ?」と思う人も多いだろうけど...これで良い、

これで良いんじゃないかと思い始めている。

 


俺の周りは小物ばかりなんだろうけど....

そんな方々の言ってきた”大きなこと”は...どうやら実現しないままに終わりそうだ。

夢だ、理想だ、目標だ、そんな小さなことにこだわっている場合じゃねえんだ.....

と言っていたような気がするんだが....

”結果”....”大きなこと”どころか小さなことさえ出来ずに...いつしか歳を取り、大ボラはついぞ相手にされなくもなってきた。

 


”言うだけ”で終わった。

それでもう半世紀も過ぎたというのに、結果”言うだけ”に終わった。

つまり....

「俺はそんなみみっちいことは狙っていないんだよ」と馬鹿にしていた”小さな穴”さえも掘れなかったわけだ。

で、リタイヤだ。

 


俺にも大きな穴を掘るような能力はなかったようだ。

でも....そこに気が付くのがギリギリには間に合ったのかもしれない。

”小さな穴”なら掘れるかな?と。

 


で、今のところ感じているのは、こんな小さなことの集まりなんだけど....

「さあ、今日から、今までとは違うこのようなやり方に変えましょう」...と大きな掛け声出しても....

「いっぺんには無理」だということ。

どんな能力の高い人であっても。

所詮は一人の人間なので。

一日死にそうなぐらい悩んで行動しても一日分にしかならないということ。

 


小さなことでも毎日毎日なら一年たてば365日分ということか?

 


そりゃそうだろう。

人間どんだけ頑張ったって一日に365日分は出来ない。

”たったの一日”で人生を変えたいなんざあ....

自惚れ過ぎだ(笑)

盆終了

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終わってみれば庭仕事に終始した盆休みだった。

バテた。

 


けど....雨が多くて進まないことを思えば贅沢な話でもある。

そんな年はまた別のストレスもたまる。

 


やり過ぎたほど庭整備が進んでいるので、一週間分ぐらいのストックはある。

その心の余裕は有難い。

 


庭仕事は基本一人だ。

誰もかまってくれない。

最初から最後まで。

なので、孤独だ。

が、だからこそ自分と向き合えるようなところもある。

麦わら被って、濡れタオルを首にまきつけて、蚊取り線香ぶら下げて、長靴履いて....

格好良いところは一つもないので、そもそも人にも見られたくもない。

変な話心までみっともなくなる。

というか、格好のつけようがない。

 


そんな機会が多かった....ということにもなる。

何しろ前倒しで進んでいるので、少し遊びに出かけても良いもんだ。

でも、庭を優先した。

深く考えることはしなかったけど、そうなった。

 


それ以外はトレーニングに。

そして、部屋に戻れば仕事の整理....なんかもした。

それでも時間が余った時には、趣味の用具を少し再編したりもしてみた。

行きもしないのに(笑)

 


趣味についてしばらく考えてみたんだけれど....

結局それはまあ仕事が無くなってからでいいかな?と。

体力やら経済力の問題はもちろんあるだろうけど....

基本、趣味はお金さえ出せば、喜んでやらせてもらえる場面は多い。

に対して...仕事はお金を頂く作業なので、なかなかやりたいようなものには出会えない。

とりあえず....我慢できる範囲の仕事にありつけているだけでも幸せな方だと思うなら....

やっぱり優先するのは仕事の方だ。

 


かつては遊び人だっただけに、昔の友人には今もなお”遊び人のまま”である人も少なくない。

さまざまなSNSで報告してくれる。

大半は資産家のご子息だったり、ヒモのような生活が出来る人だったり....なんだが....

同じ釜の飯を食っていただけに、自分だけが?趣味も置き去りにして働いていたりすると....妙な抵抗感が沸いてきたりするのも正直なところ。

そこへの割り切りだ。

 


彼らとは...もう同じ運命のライン上には居ないんだと....

なので...戻ることもないだろうと....

言い聞かせた方が良いだろうというのが結論だ。

 


彼らのような生活に違和感を持ち始めて約20年....

距離を置くことを決断してから約10年....

その間にも、彼らはずっと自由を謳歌していて楽しそうだった。

それに比べて仕事、仕事で息苦しく、時には呼吸していないんじゃないかぐらいだったから....

彼らを正直羨ましく思うこともあるほどにうまく行かないことだらけの仕事人生だったけれど....

”その間に”彼らには持てなくて、自分は持てたものも、案外増やしているのかな?

とか....

 


少し涼しくなった庭の夕方に独り思ったりもした。

 


まあ...何もかも....は欲張りだ(笑)

 

時代の移り変わり....ってなこともあるんだと思う

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ちょうどボクシングが話題になっているけれども....

私の中の永遠のヒーロー”矢吹丈”は勉強なんかしない。

喧嘩ばかりしてボクサーになっていった。

最近の官僚や政治家よりもうんとどこかのボクシング会長に似ている。

 


勉強を教える教師とて、中村雅俊なんかだと、丁寧に教えるどころか、思い通りにいかないと殴っちゃうし、そのくせすぐに心打たれて泣いちゃうし、なんやかんやで夕陽に向かって走っちゃうし、

挙句....ギターを抱えて歌えば....一見落着となるので、昨今の教師から見たらば....信じられない教師像だ。

が、そんなのが”憧れの教師像”とされたりした。

 


木暮修や工藤俊作は肩書は一応”探偵”ということにはなっているんだが...

定期的な収入すら約束されず、不安定というよりも将来の全く見えない生活になっていた。

フリーターというよりはもはやプータローに極めて近い。

が、それでも超格好良かった。

それこそ霞が関に通うエリート官僚に傾倒していた方がうんと将来のためになっていたと思われるんだが....実力は別にしてガリ便のなれの果ての疲れたオッサンに憧れを抱くような人は、よほどの先見性のある人じゃないと無理だったろう。

 


私の周りだけだったんだろうか?

”結果”よりもむしろ”生き様”のようなものにスポットが当てられ、傍若無人で豪快な様が、”格好良さ”の指標でもあったように思う。

そりゃあ昔から週刊誌による「難関大学ベスト100」やら「憧れの就職ランキング」なんてのはあったけれど....

そこにハマっていないからこその”価値”ってのがもう少し大事にされていたように思う。

良いか悪いかは別にして。

 


例のボクシング会長を見ていると、そんな時代だったから許されてきた人物なんだろうとも思える。

私の身の回りにも決して少なくない。

いい歳こいて「いつまでたってもサーフィンが好きだから」「海が好きだから」....という彼を支えるためなら苦労もいとわないのだろうか?奥さんや、奥さんの実家が援助してくれるからこそやりくり出来ているサーフショップは、事業として成立しているとは言えない。

ある意味ヒモのようなものだ。

そして例のボクシング会長ともウリ二つの生活。

 


野球ってのもプロを目指すとなるとしゃれにならないぐらいにお金がかかるそうだ。

それゆえに断念せざるを得なかった家族も知る。

が、嫁の実家からの支援があったからこそその夢を継続できている奴が....「お前ん家はそんな簡単にも諦めちゃうの?....」って....

「お前だけには言われたくないわ」

という話だ。

 


でも....

そういう人らが、許されてきた時代でもあったように思うのだ。

ある意味息苦しくないというか....

青田赤道であろうとも、がきデカであろうとも、そんなに難しい事考えずに、週末に”元気が出るテレビ”を見るならば、俺も一億総中流の一人なんだろうと思えたからこそ.....

本業が駄目なら趣味でも、道楽でも、別の土俵でも....

と、生息場所を変えてでも、生き生きとしていられる場所を探せた時代だったということだ

探していても許された時代だった...

と....思うのだ。

 


ボクシング会長に問題がないわけがないが、その発覚だけでもないと思う。

クソ真面目な努力こそ実力発揮の根源だとして生きてきた官僚や大企業のエリートが「いつまでも一緒にしてくれるなよ」と怒っているのだろうか?

「世の中は平等なんかじゃないんだよ。家柄も名誉もそれらに連れ立ってついてくる財産も、結果を出せる実力があってこそ、なんだよ。」

と、今、更に、強調してきている時代のような気がする。

底辺が追い付けないほどに引き離したのを確認してから。

 


コンプライアンスという名刀?をふりかざし、はみ出た野郎はバッサバッサと斬ってゆく。

はみ出ようとするものも容赦しない。

 


こんな時代じゃあ、俺の大好きな木暮修はヒーローにはなれなかっただろう。

一部のうらぶれたマニアはつくかもしれないが....

少なくとも豊かで安定した生活を望む女性にゃ好かれない。

ましてやIT企業の社長と付き合おうとするような人には好かれない。

よりどりみどりな女子アナが木暮修と付き合うとは思えない。

そんな奴に憧れて真似をしたいという男子なんて出てくるはずもないだろう。

そんな暇があるならば、少しでも竹内涼真君の爪の垢でも飲んでおこうとするだろう、と。

 


山根会長とともに趣味に生きる男が格好良いと許される時代は終わってゆくのかもしれない。