投資についての話

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自分もうまく行っていないが....家族も困難に次ぐ困難になってきて....

これまでの自分の行いが災いにつながっているのか.....と反省したりもするんだが....

落ち込んでいても道が開けるわけでもないので....

少しはずれた話をしようと思う...

 


"投資"という言葉があまりにもポジティブなイメージとして語られることには疑問を抱くが....

資本主義社会を標榜するのであれば、そのエンジンになっていることは間違いない。

いや資本主義社会を表明しない国家でさえ、経済の主力は普通は投資に頼っているはず。

だから”投資”は全く否定しない。

 


が、そんな中で、どっかの誰かが「貯蓄より投資」とか言ったが、その比較はおかしいと思っている。

貯蓄は貯蓄、投資は投資だ。

投資を貯蓄と同次元で考えさせるから悲惨な事態が毎年起る。

”極論”などではなく根源的理論からして、投資は「元本割れすることがある」のではなく、「失敗することがある」ということだ。

 


株式市場からリタイヤしたかつての大企業を見ればわかること。

いやさ山一證券など、投資を扱うプロが倒れてしまって....大量の「ゼロ」を生み出してしまうことも「投資」の本当の姿だ。

”増え続ける夢の投資”は投資の一面でしかない。

 


そう思うに至るにもけっこうな時間がかかっている。

大したことのない投資経験だが、年数だけは30年も超えているし。

失敗も....哀しいかな数知れない。

 


からなのか.....”投資の成功”からは学ぶことはあまりないように思えてしまう。

せいぜい舞い上がるか自惚れるかがいいところ。

 


それでも、続けているのは....

「自分が試される場」....「いや、自分の程度がわかる場」がフトした拍子にやってくるところの妙味ってのがある。

 


若い頃は金額は少ないものの有り金の全額をも投資に充てていたことがある。

それが見事にバブルの崩壊に遭った。

投資額(有り金)はみるみるうちに1/4になった。

しかも....人間そうなると「取り返したくなる」

そうなると借金こそしなかったが....貯金の出来ない生活を続ける結果になってしまう。

 


ここでも投資と貯蓄は同次元ではないことを証明している。

当たり前だ。

金を使わず置いておくことと、金を使うことは真逆でさえあるから。

同次元で扱うならば....消費と投資のどちらを選択するの?だ。

無駄な消費に使うぐらいなら投資。

そういうこと。

少なくとも自分は。

自分だけでも。

 


精神に支障をきたさないほどの少額であれば、感情の変化もつかみにくいかもしれないが、ある程度の額になってくると、価額の上下による感情の変化が見事にわかる。

上がった時は良い。

高揚し、気分もよくなり、機嫌も良くなる。

しかし、それが自惚れを呼び、知らぬ間に足は浮いている。

 


一方下がったとなるとそれを楽しく思えるわけがない。

さらに下がるなら、他の生活に何の不備がなくとも不機嫌になる。

もっと下がると不安も出てくる。

もっともっと下がるなら動揺を抑えられなくなる。

そうして何日も暴落し、やがて価額を1/4にもしてしまうなら....

動揺どころか狼狽が始まる。

心は全く健康からはほど遠くなっている。

 


人間は?はわからないが、自分は、

調子の良い時には、多少は度胸があるかもしれない....と、思ったりする時もある。

我慢強い...一面もあるのかな?とか、思ったりする時がある。

決断力がある....とかも、思う時がある。

思い切りだって悪い方じゃないかも?とか思ったりもするかな?....

 


が、調子が悪くなると、良い時には気が付かなかった異常に”ネガティブな自分”を見ることが出来る。

こんなにも弱い部分がこんなにもたくさんあったのかと.....

こんなにも臆病だったのかと....

未来さえ真っ暗になるぐらいならやめておけばよかったと後悔するのかと.....

あれだけ得意満面だったくせして....翌日には昨日に戻ってやり直せるならば....とか....

そんな自分の能力の低さや程度の低さや精神のモロさや弱さや......醜さを......

 


やっぱり金がかかっているからか、そうでない時には抑えられていて格好つけたこと言っておられる感情が....

醜いほどに歪んでしまうことが手に取るようにわかるのだよ。

何十時間も、何ヶ月も、ヘタすりゃ何年に渡っても....

”改めて”思い知ることが出来るのだ。

出来なくてもいいのに。

 


精神力だけの問題じゃない。

金額も当然に影響する。

なので「いかに儲けられるか?」は案外基準になっていない。

「どこまでだったら耐えられるのか?」

それが自分の投資の基準。

極めて精神的な基準だ。

なんだかおかしいんだけれども。

 


孫さんや堀江さんや最近話題の前澤さんには、能力だけでなくクソ度胸も備わっているのだろう。

が、自分は全く無理。

生涯そのようなことをもう思うはずもないぐらい、何度も打ちのめされているので、いい加減わきまえているつもり。

 


もちろんお金を増やしたいから投資に手を出しているんだが....

むしろ.....どこまで耐えられるのか?ってな肝試しをしている意味合いのが強いのかもしれない。

 


随分高い肝試し代なんだけれども....

 

努力への入口が見えるという話

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石田徹也氏の絵なんかに共鳴していると.....

「ちょっと精神的にダイジョウブか?」....と、思われるかもしれないが....

多分....大丈夫。

 


また....”暗い話”を書いていることも多いので...深刻に悩んじゃっているのか?と思われるのかもしれないが....

真剣に考えることはあっても、深刻じゃないと思う。

 


かといってフザけているわけでもなし。

自分なりにモノを考えるに当たっては「”願望で装飾しない現実”の上で冷酷に思考すべきだ」と言い聞かせている....からの現れだと思っている。

 


反動と言ってもよいと思う。

毎日明るく楽しく過ごせていればいいや....としていた頃だって、実は不安も、不信も、不遇もちらちら見えていたはず....

ただ....まともに向き合うことに耐え切れないの予感からか、単に気が滅入るからか、重い気分を抱えるのが嫌だからなのか?

「世の中は気の持ちようなのだよ。どんな辛い境遇だって、気の持ちようで明るく、楽しく、過ごせるんだよ」という....”蓋”をしていた...

ことへの反動...というか反省があるんだと思う。

 


見えているはずの水漏れを、感じていたはずの傷を、

蓋して気が付いていないフリで時が過ぎれば....

自然に消え去っているのかと言えば....むしろ”穴”は育ってしまっているんじゃないのか?

放置ってそういうもんだろう。

 


これは正しいとか悪いとかの問題じゃなく、

自分がこれまで生きてきた人生からの訓示のように受け止めている。

実際そうだったし、そう反省しているし。

 


だから....穴ぼこや水漏れに向き合おうとしているだけのこと。

できれば小さなうちに見つけてしまおうと思っていること。

 


毎日毎日日課のように欠点や支障を探してばかりなので、そりゃあ楽しくはないけれど

不思議なことに、うそぶいて明るく楽しく振舞っている時よりも不安は無いと思う。

本当は知っているのに隠している方が心は落ち着かないだろうし。

 


ってか、この習性を維持し始めてからもけっこうになるので....

不安を抱えていること自体が自然体というか、常時不安と同居しているので、楽しくはないけど、暗くもなく、至ってその状況が”普通”になっているだけのこと。

書いているほどに怯えているわけでもないというのはそういうこと。

現実の周囲はこのような覚悟で生きていることを多分知らない。

バレないようにしているというよりも、こんなこと誇張したらば気持ち悪がられるだけなので(笑)

むしろ、普通よりは明るい人だと思われている....と思う。

 


自分だけじゃないとも思っている。

少なくとも石田徹也氏には”そう見えた”現代の光景の中に生きているのだ。

気持ちの良い光景じゃないし、まさかの自分もその一部?ってなことを思えば失望するのかもしれないけれど....

否定したい気持ちはわからんじゃないが....

じゃあ「どんなお花畑にでも過ごせていると思っているの?」

ってなところか?

 


自分は否定するよりも、リアルな現実を受け止めたいと。

そこをベースに考えた方が、少しでもマシに現実を変えてゆけると。

不思議なことかもしれないが、石田徹也氏の絵は、失望への到着ではなく、自分の場合は努力への入口になっている。

いつかはやっぱり管から昼食取らない立場になりたいかな?とか(笑)

石田徹也に見つかりたくない話

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悶々とした毎日だ....

とは書いているものの、かつてのように....

休日とはいえ昼間からビールを飲んだり、半日寝たままで過ごしてしまったり...はしていない。

 


別に強く心がけているつもりもないんだが...

ある程度はクセがついてきたということかな?と思っている。

 


”仕事”は当たり前。

仕事以外の用事としては...トレーニング、庭の手入れ、車の清掃、服の整理、その他の用具の整理、飲み会、投資、趣味、そしてブログの更新、などなどがある。

かつてはこれに”資格取得の勉強”とか、とある”スポーツの練習”があったんだが....

そこまでこなすのには余裕が足りなくなってやめている。

やめていて....まだ余裕を感じないのだから...復活もないように思っている。

 


別に「一生懸命頑張っていたい」なんて望みがあったわけでもないんだが...

先回の話にもあるように....「ふら~っと一歩踏み出してしまった」ことからこうなってしまっているだけのこと。

 


ただ....

歳なんだろうか?

全部を続けられなくなってきた。

全部こなそうとすると....何かをおろそかにするようになってきたり、あわててミスをしたり、妙にイラつくようになってきた。

そんなぐらいならやらなくてもいいのに...ぐらいに。

 


はてなを見ていても、もう少し皆さんキッチリやっておられる。

丁寧というか、しっかりというか....

自分は.....まさに”やっつけ仕事”だ。

あれもこれもと手広くやっているかのようにしているが....ひょっとしたらば何も成果が出せないほどに雑なのかもしれない。

 


最近はそこんところを少し意識してみたりして....

フト見直したりもしてみるんだが....

やっぱり”慌てて”いる。

そんなにも慌てなくても良い場合にも....慌てている。

言い方を変えるなら”焦っている”。

 


誰も急げとは言っていない。

むしろ....

来週でもいいよ....

そんなにたくさん抱え込まなくても....

いやそこまでやらなくても....

そう言っていただけることの方が多いんだが....

勝手に慌てている....

そして....疲れている....

 


なんなんだろうなぁ....

レーニングの仕上げにサウナに入ることも多いんだが...サウナの時間さえ思わずカウントしていたりする。

多分....くつろいでいるのは、ビールで脳を麻痺させている時間だけのような気もする....

 


こんな状態だ。

何かの目標があるとか、計画があるわけじゃあないんだが....

「サボってちゃいけない」

「できるだけたくさんやらなければいけない」

「行動こそが結果につながる」

ってな上等な決まり事を気にしてか?

きっと自ら....ってわけじゃなく...

何者かに背中を押されて....

自分が動かされているようだ...

 


休むことなく動いている割に、少しもポジティブな心境じゃないのはそういうことなんだろう。

多分...

石田徹也は俺みたいな人間を見つけては、これ以上ないぐらい”写実的”に描いてみようとしたんだろう。

 


あんな風に描かれたくない俺は....

石田徹也に見つからないように....

焦って、急いで、逃げるかのように、行動にしがみつこうとしているんだろう。

 


そんなこと書いているうちにも、新たな”やるべきこと”が出てきてしまったりして....

資料作りを始めている。

 


もう癖なのか?

 

 

(画像はどこかのサイトから拝借しました。問題あれば削除します。)

思わず一歩踏み出していた話

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学年最下位という貴重な称号を頂いた割には....ありえないほど幸運に生涯安定と言われるような職業につけられたんだが....

それをも案外簡単に放り出してしまったからには...どん底の生活になっていても仕方のないところ....

飄々と普通の生活(自分ではそう思っている)を送っているので、よほどの決断や見切りが良いかのように言われるんだが....

そんなことは”絶対に無い”。

本人の感覚としては、むしろ....決断の機会が過ぎてしまって....”流されるまま”....の結果なので、”それ”を情けなく思うぐらいだ。

 


最近は2世タレントとか、2世議員がよく話題になるのだけれども....

それも失礼ながら案外似たようなもんじゃないかと思ったりもする。

 


”才能DNA”を否定するつもりはないけれど....その”才能DNA”とて、環境が開花させることは多いんじゃないだろうか?

例えば....体操選手の子供であったりすれば....

親の仕事場についていったりして....

自然とマットの上で転がったりもするから、早々と才能DNAが芽生えて行く....というように。

なので、ピアニストの子供であったりしたらば....指を怪我してしまいそうな場所を、少なくとも子供のうちは遠ざけてしまうぐらいの”違い”があって...他の芽も育ちにくいと。

自然の純粋培養の畑が用意されている....ように。

 


生まれた時から2世としての覚悟を持ち、才能を自ら育てて行くというよりも、”あえて”ではなくともに、親だけでなく、その周囲もが、無意識のうちにも様々な蜘蛛の糸を垂らす様相となり、

本人が、大した決意を持つこともなく、気が付いたらけっこうステージが近くに来ているとか...ってな感じではないのだろうか?

 


自分には....そんな大それたステージはなかったけれど...”目標”を決めて、”覚悟”を決めて、今があるわけじゃない。

前にも書いたが元々まずは”目標”を持ったことがなかった。

いや、”運動が学校で一番に”とか、”誕生日が来たらすぐに免許を取る”....のようなどうでもいいようなくだらない目標は持ったことがあるが....

人生の分岐点になるような目標は持ったことがない。

というか....避けていたんじゃないかと思う。

真面目に考えたり、悩むのが嫌で。

 


見た目、明るく楽しい人生を送っては来たようなのだけれども....

実態はネガティブだったんじゃないだろうか?

決断を避けてきたということは。

 


そりゃあデートのコースを決めるような”決断”ぐらいは重ねてきたけれど....

それだってどっちかと言えば、ほぼ”的外れ”な決断ばかりだ。

それぐらい目利きが利かない。

いや、利くならば、今頃もっと成功している。

 


....の連続の結果が”今”なのかとは思っている。

つまり....大した”決断”をしてこなかった人生だ。

 


ただ....それでもどうにかなっている理由があるとするならば....

”思わぬ一歩を踏み出してしまう性質”のおかげかな?とは思う。

 


「清水の舞台から飛び降りる」ような決断なんかしない。

清水を借りるなら、あまりよくない表現だけれども....

ふら~っと、吸い込まれるように落ちてしまうってな感じか?

それでも何故だか三年坂あたりに着地していて....

「ま、ここも悪くないか....」のような人生な気がする。

 


三年坂に到達することだって、下から登ってくるならば、それなりに大変なんだろうけど....

別の場所から思わぬ方向に一歩踏み出したことで、違う環境に入ってしまう....というような....

 


”ふら~っと”の例もしょうもないものしか思い浮かばないんだが....

帰りの新幹線での読み物が無かったから手にした資格入門本だったり、立ち読みで見た赤本だったり、失恋を癒すために見た映画だったり、

....そんなことらから、大した決断でもなくふら~と一歩踏み出してしまったことが....

けっこう”転機”になっている。

 


少し歳を取り過ぎてはしまったけど....

その前兆はいつも”悶々”だったかもしれない。

なんだか上手く行かないことばかりで悶々としている時に、ふら~っと踏み出してしまう一歩から、気がついたら、別の場所に来ていたってな....

 


残念だけれども、自分の場合は、”悶々としているところから決断の末の脱出”ってな格好良い転機は無かったようだ。

ただ、ふら~っと踏み出してしまう一歩からの思わぬ展開はあったようなので、今後もそれぐらいは期待してもいいかな?と。

 


いう話。

気持ち悪いブログの話

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相変わらず悶々とした毎日を過ごしている。

なので”正直なことを書くブログ”としては悶々としたことしか書けていない。

目にする方々に申し訳ない気持ちもあるので、更新期間は空けるようにしているが、それでもスタイルを変えようとも思っていない....話。

 

 

「ブログばかりでなく、SNS全体として、”公開している”以上は、目にする方々の気分にも配慮すべきだ。」

との声に、同感する部分もあるんだが.....

実際にやっている自分とすれば....

「もう少し自分中心であること」をお許し頂きたいものだ。

 


自分の見る限り....

現実の社会では、大体の人は周囲に配慮しておられる。

気分が悪くなるような暴言を吐いたり、行為をする人は、どちらかと言えば珍しい。

自分だってそう。

 


そう、一応我慢しているのだ。

良い/悪い、の線引きは理解しているのだ。

が、正直な感情や思考は、全てそこに収まるのか?と言えばどうだろう?

 


残念?ながら私の場合は”正直”は収まっていない。

 


”そこ”は、思いついてはいけないことなのだろうか?

”そこ”は、考えてはいけない分野なのだろうか?

 


相当に怠け者だということ、相当に汚い心理だということ、相当に卑怯だということ....

そんな気持ちに囚われてしまっている醜い自分が...

「このままじゃいけない」ことだけはわかっているんだけど....

「どうすればよいのか?」がわからない頭の中を、現実の周囲の方々には、迷惑かけずに、自分で解決したいというのは間違っているのだろうか?

 


自分の場合は....間違っていない....とまでは言わないが....

他に方法が見つからないので、ブログで考える方法を実施させてもらっている。

長きに渡って実践してきていると言えるほどではないけれど....それでもまずまずの時間は経過してきた。

あまり芳しい成果は無いんだが...

 


同じよう?と言っちゃあ失礼だが、人に見られたならば明らかに嫌悪感を抱かれるようなブログを書いていらしゃる人は案外少なくない。

押しが強いというよりも、好感持たれないことを承知で書いていらっしゃる感じだ。

いくつか自分も定期的に読んでいる。

で、自分のことをさておいて言うのはなんだが....やっぱり気分は良くない(笑)

でも....これでその人は救われているのかな?とは思う。

現実世界の自分を取り乱さずに済んでいるのかな?とか思う。

本当の自分を誤魔化さず、ちゃんと向き合えている”おかげ”で、何らかの”解決”に近づいているんじゃないかと期待する。

ブログの世界では迷惑をかけているのかもしれないけど....

 


でも、それならそれで、ブログというものが、人々のお役に立っている一面もあるというもので、これ以上人の行儀を厳しく問わなくてもいいように思うわけだ。

 


ここんところスポーツ界の不協和音が恐ろしいほどに集中攻撃を受けている。

こっちが正義で始まったのに....と思いきや、いつしか悪者が逆転していたりする。

下手なドラマより理解が出来ない。

 


ただ....「お前らが言えた分際かよ」ってな奴らが毎日裁いている。

いかにもの”正義”を振りかざして。

そして....不思議なんだが....

あの大相撲の暴力問題はどう解決したんだろう?

あのアメフト部はどう解決したんだろう?

レスリングは?

今度の体操は?

騒ぐ時にはあれほど群がったのに、解決には誰も責任持たんのかい!

そういえばカケイは?モリトモは?

 


世界のことなんか知らない。

が、これがニホンの現状だと思う。

テレビでも、テレビの人らの口調や思考を真似する素人のSNSも、

騒ぐことだけは大得意。

火種を変えて毎日毎日騒いでいるんだが....

燃えがらを

焼きついた道具を

散々いたぶられた気持ちを

拾い集めて未来には向かってくれない。

 


有名な人、注目を浴びた人でさえ、それなのだ。

なら、無名で木の葉のような人生の自分のことなんか、誰も、誰も、救ってくれるどころか、見向きもしてもらえるはずがないというものだ。

哀しくもない。

それが現実だ。

 


であるなら、

誰も考えてはくれないのだから....

例え気持ちの悪い文章を綴ってでも...

せめて自分は自分のことを考えてやらないと。

しかも自分の能力に余分な装飾を施さずに。

 


「世の中は厳しい」って言うじゃない。

厳しいなら、自然のままで、うまく行くわけないじゃん。

何か工夫をしなくちゃ....

 


という話。

贖罪のネタ探しの罠

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例えばスポーツのトレーニングで言うと....”長所”を伸ばすってな指導はもちろんにあるんだろうけど....

じゃあ”短所”はほっときゃいいかと言えば....そんなことは無いはずだ。

ましてや”欠点”であることが明らかであり、直せる可能性のあるものならば...

それは見つけて、解析して、さらに”よりよい未来”に向かおう....とするのはごく普通のことだと思う。

 


じゃあ、その手法は...スポーツ以外においても、自分の未来を”よりよいもの”にしてゆく有効な手順になるはずだ。

...として、それを贖罪という言葉に置き換え、そして時たまそのネタを過去に探しに出かけている。

 

 

が、注意しなければならないと思っていることがある。

というか注意していてもけっこう陥ってしまう穴がある。

 


それは....本来は塗り替えられないから”過去”であり、塗り替えても仕方が無い”過去”なのに....

”反省”に気をとられるために....

いやあまりにも”反省”を追求してゆくうちに....

「こうしていたらこうなっていたよな」とか....

「そこでやめておけば...道を外さず済んだよな...」とか...

ありえなかった”過去”を想像してしまうことについつい熱中していたりするわけだ。

 


その反省というか修正は、過去から言う未来の”今”だからわかること、想像できることだ。

例えば中学校の後悔を”今”省みるならば、そりゃあ多くのことに理想のやり直しも想像できるだろう。

が、当時の未来も見えていない中学生の馬鹿坊主には考えつかなかったから”過去”として”決定された不変の事実”になっているわけだ。

 


猛練習にも諦めずに部活を続けているなら甲子園に行けた....かもしれない...やら、

もっと早くから勉強の大切さに気付いていたらば、東大は無理としても、有名国立大学ぐらいは行けたかもしれない....は、

”今”の判断力やら想像力やら常識があってこそ考えられることで....

つまり....”過去”からさらに人生を積み重ねてきた経験があってこそ判断できるようになったことなので、

それは”有り得ない”「修正された過去の想像」なわけだ。

 


片思いだった娘に同窓会なんかで会い、「私貴方のことが好きだったの」なんて告白されると....

「えっ、だったら告白しときゃ、付き合ってられたんじゃねーか」

というような”やり直し”はバックトゥザフューチャーでもなければ、絶対にありえない”やり直し”だということだ。

 


それを”今”どれだ後悔という努力?をしたとしても、実を結ぶことのない努力なのは明確だ。

まあお互い独身でもあれば、違った形の”やり直し”が無いとは言えないけれども....

 


贖罪のネタ探しはそんなノスタルジックに自分を浸らせることじゃない。

いや、浸ってもらっても構わないんだが....ほどほどにしておかないと....

そんなことに時間を使っていたらば”これから先の未来”どころか”今”だって良いものに出来ないかもしれないというのに...

 


例えば人身事故を起こしてしまったとしよう。

あの角を曲がらなければ....

一旦停止をしていたならば....

信号をもう一度見ていたならば....

後悔したり、反省する具体的なポイントは的確に出てくることだろう。

が、それがわかっても....事故を起こしてしまった事実は絶対に消せない。

 


それと同じこと。

それから先の人生は”事故を起こしてしまった自分”を永遠にひきずって生きていくしか道がないということ。

 


部活が続けられなかったことも

思ったような進学が出来なかったことも

片思いの彼女とも付き合えなかったことも

「こうしておけば...」という”答”が”今になって”具体的にわかったとしても、過去は今からじゃあ1ミリも変えられない.....

という”当たり前の”思考範囲は維持しておくべきだということ。

そして....”その延長”に自分は”今”生きているのだから....どれだけ過去の想像上での修正に力を注いだとしても、この”今の瞬間”までの自分には何も影響しないということだ。

 


贖罪行動の自分なりの規範は....

同じ過ちは繰り返さない。

同じ後悔は繰り返さない。

 


そのために、醜い過去の反省を探しまくっているというだけのことで。

大した時間を使うことでもなければ、自分に都合の良い修飾を加えるものではないということ。

 


残念だけれども、”今”無駄にした1秒とて取り戻すことはできない。

こんなくだらないブログを書いている時間にも、もっと違ったことがやれているだろうことも取り戻せない。

そんなに未来の時間の使い方に神経質になるのも問題なんだろうけど....

それが現実というものだ。

変えられるのは未来の行動と、それに伴う結果だけ。

それはどれだけ年齢を重ねても共通していること。

 


過去への反省へは積極的なのに、最近は未来への努力が億劫だ。

けっこう無駄にも時間を使っていると思う。

きっと”昔の自分”にもそういうところがあって....

「やっときゃよかった」ってな過去を多く残しているんだと思う。

 


多くの反省点を見つけ、多くの贖罪行動もしているというのに....

また新たにも反省点を生み続けてもいるわけだ。

それはもう理屈から言ったらば....

「愚か」というしか無い様なのだけれども....

 


まあ....「愚かな自分」....というのが現実なんだと思う。

もう一つの「努力」への原動力は

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”贖罪”だ。

 


前にも書いているかもしれない。

「過去など振り返ってもどうにもならない」....と、言いつつ、時折”過去”を回帰するのは、”贖罪”の確認のため。

”贖罪”を自分の場合は明らかに努力のための”スイッチ”にしている。

この方法が良いのか悪いのかは精神科の先生でもない自分には判断できないが....少なくとも、贖罪もないかわりに努力もしない、よりはマシかと考えている。

というか....多分...何もなけりゃわざわざの努力なんてしない。

もともとはそういう人間だったので、自分自身が一番それをよくわかっている。

 


そう...若い時に”重荷”を抱えることが辛く、放棄をすることにした。

子供の頃なので正確に覚えちゃいないし、理由なんかもおぼろげだ。

ただ....意外と簡単に、苦しむことも放棄したし、努力も放棄した。

どれだけストレスを抱えずに、いかに毎日笑って過ごせる時間を増やせるのか?などという今からは信じられない路線にアッサリと切り替えた。

そういう実績を持っているからこその自信もあるというわけ。

 


理由なんかどうでもよいが、”心の休養”には良かったのかもしれない。

が、”楽なこと”ってのは恐ろしい。

慣れてしまうと簡単にはそこから離れられない。

なんせ超居心地が良いのだ。

離れる理由でもない限り離れようとはしないいものなんだろう。特に自分は。

ってなことであまりにも長い休養をしていたようだ。


....の癖して願望だけを抱くようになったとしたらば....

しかも案外その願望が大きいとするなら、

そりゃあ虫が良すぎるということになって当然。

 


欲と願望と快楽の贖罪があるわけだ。

芥川龍之介の小説のように。

とでもしないと努力しないかな?と。

 


それだけのこと。

基本努力したくないので、努力するためのキッカケとして変な話贖罪を見つけようとしているということ。

 


贖罪のための努力なので、過去の穴ぼこを埋めているようなカンジ?

なので格好良いどころか、あんまり前向きと言えるスタイルじゃない。

ひょっとしたらうなだれて努力をしているのかもしれない。

 


スイッチが入ってからでも、なんとなくゆっくりと済ませているんだろう。

いまだ追いついているカンジもしない。

周回遅れを走っているカンジ?

夏休みにやるべきだった宿題を2学期にやらされているカンジ?

みんなもう2学期の勉強始めてんのに。

 


そんなカンジで生きているんだと思う。

なので”基本”あんまり楽しい毎日じゃない。

が、そんな”楽しくない日常”になってしまっていることを誰かのせいにしたところで...気が晴れる.....ことでもないし...

なら、もう一度、重荷を下ろした生活に戻るならば....そこも本当に楽しかったのかな?と....

そういったモヤモヤを一言で片付け、行動に移るのに、「贖罪」を便利で簡単なスイッチにしている。

まあ、書いているほどに、堅く、細かく、考えているわけではないけれど...最低限のモチベーションの維持にはなっていると思う。

 


ともかく、浮かれてきたというかサボってきたというか逃げてきた年数は25年ほどあると自覚している。

なら、ここまで20年努力を続けていると....しても....しても....あと5年ほどは足らない。

普通に考えてプラマイゼロにしたいなら、もう5年は続けないと....ね。というわけで、そこもさらに気持ちが重くなるところ。

 


まあでも全てにおいて過ぎてしまったことなので、仕方がないのだよ。

1年サボってきたことはたったの一日の努力では絶対に取り返せない....のだからして。

と、思うようにしているのも、そういうところ。

 


まあ、奇遇にもちょうどの年限なのかな?という気もしている....

カンタンに言って人間は最後までサボれないというか、サボったツケは死ぬまでに精算しなければならないようになっていると。

 


さてさて、5年後は少しゆっくりしたいんだけれども、神様に許してもらえるかどうか........(笑)