小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

18年前とは...

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別に年齢も隠してきたわけじゃないが、年齢や家庭環境や仕事の内容については、あまり書いてはこなかった。

 

というのは、それも一つの自分への戒めであって、「年のせい」「家族のせい」「仕事のせい」で、「出来ない」....という言い訳にしたくはなかった....してはならない、と思っていたからだ。

特に個人からの情報発信が自由となっている現状じゃあ、もう不平不満どころか、愚痴、弱音、人のせい、嘆き、厭味...の公表?何でもありだ。

いや、”あり”でもいいんだが、それらを吐くことが日常化するようになり、頑張ったり、反省したり、努力したりすることよりも、真っ先に、そんな言葉を生むように脳みそが働きだすようになってしまっているように見受けられて....

「そうはなりたくない(なっちゃいかんな)と、自制の念を込めて、”せい”にするような要素については、あまり書かないように意識してきた。

 

書かない、ということは、考えない、ということでもある。

それを信頼した。

 

が、それにも無理というものがあるようだ。

ささやかなものだがトレーニングも始めて18年になる。

地道に地道にだが伸ばしてきたタイムや距離や回数が伸びなくなったのはおととしぐらいからだ。

そりゃ決して愉快な状況じゃあない。

が、そういうことへの対策だってしてこなかったわけでもない。

やってこなかったら、そもそも続いていない。

が、”やってきた上でも”そうなってしまうようになったのだ。

 

そのトレーニングを始めた時だって「いい歳なんだけどな...」と思っていたものが、もう18年も経っている。

そりゃ相当「いい歳」になっている(自分じゃ認めていないけど)。

 

つまり....別にあえてフケ込む必要はないけれど、様々な状況の変化、環境の変化を無視できる年齢ではなくなった....ってことも脳裏に置かなくちゃいけない年齢にはなったんだろうな、とか。

 

先日も趣味の釣りを再開した友人に「どうしてまた急に?」と聞いてみたんだが...その返事は....

「いや、釣りなんて足腰さえ丈夫ならけっこう年食ってもやれると思ってたんだけど...老眼とか、手先の震えとか、ましてや血管関係の病気で不随状況残った日には、仕掛けが作れなくてやれない、と思ったからさ。けっこうもう、今が、やれるとき、なのかな?と。」

って言われて...

なるほど、と思った。

 

”仕事”に関しては、生計もあるし、老後だって関係してくるので、ある程度将来をボンヤリ考えてみることはあるんだが...

まさかの”趣味”でやれなくなるかもしれない...ってな想像はそういやしたことないな、と。

 

奇しくもとある親族に癌が宣告されたのと同じ歳になっている。

その方はそこから3年の闘病生活で亡くなった。

 

正直今は、今でも、仕事中心、収入中心の生活は何も変わっていないんだが...

18年前とは全然違う環境に居るんだろうな、と、あえて再確認し始めている。

そして....そういうこと....無視して生きていくには、ちょっと無理のある年齢になってきたかな?とも。

頑張りゃりゃ全部プラスに出るわけでもない。

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先日の飲み会で「最近早いね」と感心された。

これで2回連続だ。

というのも、飲み会はほとんど遅刻というか、遅刻が当たり前だったから。

 

別にそれぞれの飲み会をナメているわけでもない。

ただ....これまでの日課のスケジュールだと....何もかもにギリギリまであたっていなくちゃならなかった(と、自分で勝手に思っていただけなんだが...)

ともかく、どれもこれもやれる限りギリギリまで。

そして、あわてて準備をして、これまたギリギリの電車で出発。

乗り継ぎなんか階段走って....

という、「ギリで到着の時間を想定して」スタートしていたわけだ。

そりゃ乗り継ぎ失敗だけで即座に遅刻になる。

 

勉強をヤメて生まれた余裕なんて、勉強時間がしれているので、同様にしれている。

というか、本来勉強している余裕なんて無いところにネジ込んだ勉強時間なのでしれているに決まっている。

その勉強を外しただけで....「早めに出発しておこうか」なる気持ちが芽生えてきたってことは、一体あの詰め込みスケジュールはなんだったのか?

 

仕事にしろ、遊びにしろ、自分が出発するときは、大体走っている。

やることがたくさん...というよりは、ギリギリまで”前のこと”に従事しているので、出発準備に時間が足りない。

そうしてあわてて地下鉄なんざ乗ると、夏なら汗だくにもなってしまうので、家から着替え用のシャツを持ってきて、電車乗る前にトイレで着替えするってな手段も身に付けていたほどだ。

 

そうでありながらもモラル上も遅刻が許されるとは思っていないので、その道中も常に焦っている。

車なら道路に、歩行者に、他の車に。

電車なら地下鉄に八つ当たりするんんじゃないかというほどに。

自分の出発が遅いのが原因であっても。

 

その結果?効果?成果?まではよくわからない。

が、自分じゃ一分も無駄にしないよう”一生懸命やっていただけ”のつもりは、なんのことはない”身勝手な時間配分で焦っていただけ”。

いやいやふとした拍子にゃ、自分じゃ予想もつかない「俺は一生懸命やってんだぞ」という不機嫌な顔で巻き散らかしていたんじゃないかと....

思い当たるフシもあるし....

 

勉強をしなくてもよい気軽さなんてしれたものであるはずなんだが、そんなしれたものにさえ支配され、盲目的になっていたのか?

「早めに出発する」以外にも”対人関係”にも多少気が使えるようになっている気がする。

思うようにいかなかったり、予定を乱されるような突然の訪問、お伺いにはすぐさまイラっときたもんだが、一呼吸置くようににもなっている。

ってか....そう思うと、これまで「人の立場」なんて....あんまり考えてもいなかった....んだろうか....

 

なので、他人とのトラブルも減っているかのように思う。

そして...これも意外なんだが...「写真なんか久しく撮っていない」「撮る暇ね~」としていたが、「早めに到着してしまって」時間を持て余すときなんかに、写真は最適だな、と(笑)

 

たしかに一生懸命になるってのも大事なんだろうけど....

まわりどころか、自分も見えなくなるってな面もあるんだろうな。

 

勉強をやめてから一ヶ月ほどになるが、勉強は正直ゼロになってしまったが、他のことはむしろプラスが出ていると思う。

要するに欲張りすぎ、詰め込みすぎだったということか。

 

勉強やめてみて

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ということで....

ともかく日課から勉強だけを外している。

もう一月以上になる。

 

が、起床時間も就寝時間も変わらない。

出勤時刻も帰宅時刻も変わらない。

 

そういうことだった。

もともと勉強できるような余裕の無い生活だったところを、たまたま無理してみた。

でも、やっぱりそれは無理だったということ。

 

まあ、良い。資格2つ取れたし。

 

ただ...妙なクセが身に付いた。

ついつい....全部ノルマを消化しないといけないように焦るクセだ。

”肝心の”仕事だって、もうちょっと手を抜いている奴も多い中、けっこう細部まで、時間もかけてやっている。

そりゃここが本道なので崩すわけにはいかないし...

...の上にトレーニング、の上に庭の手入れ、の上に勉強、の上に付き合い、の上に.....

って、そりゃあ全部やるのはもともと無理ってもんだった。

 

が、できうる限り全部やるぞ、としていたので、それぞれを圧縮するしかない、と。

 

なので、勉強一つを外したぐらいじゃ、それぞれに少し余裕が出るぐらいなので、毎日の生活に大した変わりはないということ。

 

...しかし...この余裕は、”暇”ではないし、悪いもんじゃないな、と思えてきているということ。

仕事も、もう一歩積極的になれるし、多分、無意識にも丁寧になったりしているんだろう。

仕事の手ごたえが悪くない。

プライベートな付き合いも、イラっとしたり面倒臭がらなくなっているような気がする。

顕著なのは”対人関係”か?

なんせ、いつも急いでいるので、急な事態や予定外の事態を歓迎することがなかった。

その”おかげ”で「ノルマが果たせなくなってしまう」ことが脳裏に浮かんでいたからだ。

 

いわば無意識のうちにも「ノルマ第一主義」に支配された三年間だった、ということなんだろう。

 

さあ、この先どうしていくのかはまだ具体的な計画があるわけじゃない。

ただ、気が付けば「次の五カ年計画」のうち、いつしかもう二年が過ぎようとしている。

”目標達成”のためにあと三年しかないということ。

 

そして....これは”目標”というよりも、大きな転機がその後、今から三年後か、三年半後に来るような予感がしてきたこと。

まとめて言えば、大体三年後には今と違った生活をしなきゃいけなくなるかのような予感....

 

ということは、よりこれからの三年間は大事ということなんだろうから....

余分な勉強?というのは、ある意味、その後の人生の邪魔になっていたのかもしれない....のかな?

 

まあ、いいや、いろいろな意味で、本当に余裕が生まれたなら、また再開するってな手もあるし。

 

さあ、今からトレーニングで、その後飲み会。

ちっともゆっくり出来ていないが、勉強していた頃よりは、多少なりとも気をつけながら(考えながら)行動できているような....

気はしている。

バテたな、こりゃ

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駅伝を見ていると、走破後「本当にさっきまで走ってたの?」ぐらいの選手と、倒れてしまって救急車で運ばれるような選手が居る。

そんなもの専門家なので、ペースの配分から事前の準備、日頃のトレーニングとそう差はないと思う。

イメージだって、ともに”快走”を描いていよう。

が、残酷なほど結果に差が出ることがある。

決して”快走走者”が手を抜いたということではないだろう。

やはり何らかの理由で倒れた選手はオーバーペースに至ったんだ。

これもおそらく”わかっていても”。

 

 

強がってはいるものの、先の「五カ年計画」は、これでも結構無理してたんだろう。

正直、思っていたよりも収穫もあったし、達成ペースも速かった....

が、その分余計に。

 


”その後”も、もう2年になろうというのに、ペースが戻らない。

よりも、結構毎日ダルい。

昨年末から正月は寝込んだのも記憶に新しい。

 

何とかこの低迷から脱出せねばと、いろいろ試してもいるが、これもノリ切れていない。

 

まあ、深くは考えないが、単純にバテたのか?とは思う。

休みが年に2日なんて年もあったし、大体が14時間稼働だった。

 

ということで一つの目標を諦め、最低限の努力目標の維持ということでふんばってはいるものの、それさえ嫌な日も正直増えている。

 


ま、それぐらいはやるけど。

 


まあ、人間いつも順調というわけにはいかないだろうし、いつもいつも前を向いていられるわけでもないだろうし。

 

ってなことで、止めてしまう<ノンビリでも続ける

という選択にしている。

 

いや、どのみち「出来ない」んだから、選択ではなく、継続するために「残された唯一の方法」だとも思うし。

 

イチローの調子が悪いらしい。

というか、一体いくつだと思っている。

あの年齢でバリバリの大リーガー達と争っているんだ。

なまじっかの消耗では済まされないはずなのに...

よーくやってるよな、と毎年思う。

 

が、俺は俺、彼は彼。

彼から見たらば鼻くそのような低レベルの努力でも、消耗するものは消耗するんだって。

残念ながら”休場”は許されないんで、休み休みながらでも続けるしかないのだよ。

正直、今は何を目指したいか?よりも....もう少したくさん毎日寝たいんだし。

最低ラインは維持

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前回はおどろおどろしいタイトルだったので、早めに更新したかったんだけど、また、時間が経ってしまった。

 

勉強を”日課”から外して18日になる。

18日にもなれば、もうそれ以前の習慣すら忘れかけてくる。

あたかも”今”が過去から続いているような....

むしろ....思い出すのは、こういったブログを書く時ぐらいなもんか?

 

”気の持ちよう?”はあまりわからない。

とりたてて考えることもないし。

ただ...勉強を日課としていた時と、”忙しさ実感”はあまり変わらない。

つまり、勉強がなくても、起床から就寝までに暇な時間はさほどない。

ん?

物理的にはそりゃおかしい。

が、実際そうなのだ。

ん?

じゃ、勉強はしてもしなくても所用時間がゼロ?ということになる。

 

んじゃなく、それぐらい他の時間を削っていたんだろ、多分。無意識のうちに。

それが相当のストレスだったのかな?とか思う。

勉強があっても、なくても、所用時間の全体は同じ。

なら勉強時間の分だけ、他のことを圧縮した時間でやってたわけだ。

 

自分じゃ焦らぬよう、急がぬよう、丁寧に、やってたつもりでも....

そうじゃなかった....んだろう。

隠していたけど、自覚も、あったんだろう。

 

そういうことがなくなった分だけでも、少し、スッキリしているのかもしれない。

大してスッキリした気分でもないが。

 

今後のことはわからない。

勉強が日課でなくなったからと言っても別に余裕が出来たわけでもなく、

今日だって、用件全部消化できなくて、来週に残すぐらいだし。

 

まあ、ちょいと詰め込み過ぎていたな、とは思うので、今後のことはこれからまた考え直していこうかな?とか。

 

とりあえず、仕事とトレーニングはサボっていないつもりなので、ま、最低限、は努力してるかと(笑)

憎悪からの努力

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どうもハライチみたいなタイトルが多い。

 

勉強を”日課”から外して12日になる。

ごいさんに言われたからじゃない。

こういったことは初めてじゃないので、自分の中で”尺度”は持っているつもり。

 

ただ...性質...と言っていいのだろうか?

意識していないと、同じことを繰り返す。

今回もそう。

気が付けば...ということになっていた。

 

本当の意味の”努力好き”じゃない。

努力を始める魂胆や、その仕方など、まっとうに努力を重ねている人と並べたら失礼な輩だ。

それもわかっている...つもり。

 

魂胆というか努力を始めるキッカケ、動機までは自分じゃわからないが...

継続につながる意欲の根源が健康的じゃない。

さほどにドス黒いものじゃないが、

見返してやりたい

どうよと見せびらかしたい

賞賛されたい

そんな憎悪?みたいなものが、深層心理にあるように思っている。

 

誰に対して?なのか?

うっすらとはわかるが、気持ち悪いので書く必要はないだろう。

生い立ちか、経験か、環境か、

ま、ここんところは考えたって仕方が無い。

もう過ぎたところだし、自分じゃコントロールもできないところだ。

選んで日本人に生まれたわけではないように。

 

だから....

自分はうまく行っている時には努力を始めない。

もともとが自惚れて、のんびりと、ぬるま湯につかっていたいのだ。

本心はそこにあるのだ。

 

うまく行かないから

嫌々努力を始めるのだ。

 

ただ...そうであっても、努力しないよりはマシだろう。

そう本心をごまかして努力を始める

 

だから自分の努力には恨みがくっついている。

 

自分の努力が評価されないと面白くない。

努力の結果が褒められないと面白くない。

 


そんな自分の性質を思いだしたときは、そんな気持ち悪い努力ならやめてしまえとなる。

で、やめてしまっても、日常生活に影響のないことを知る。


いわゆる「気持ち悪い奴」になろうとして努力をしているようなものだからだ。


相当に負のエネルギーなんだろう。

 

今そんなところ。

 

日課が一つ減った割に暇は出来ていないんだが、他の事は少々落ち着いて取り組めるようにはなってきたかな?

 

王様の耳はロバの耳

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正直な話、

ネットが登場した頃、ものすごく誘引されてしまったのは、

現実の世界で”聞けない話””見られない映像”があったからだ。

健康な成人男性が発する感想なのでお察しを。

 

Hな世界の件ばかりじゃない。

2chを代表として、面白い本音、痛快な厭味、引きずり込まれそうな嘆き...等々

現実の世界でそれを発することは

禁じ手、ご迷惑、失礼、戒めを受ける....としてなどあって、縁の下に隠されていた”思っちゃいるけど発せられない言葉”が大量に溢れだした。

 

もちろんその功罪はあろう。

が、それによって、現実の世界だけでは知る由もなかった「本心の世界」の存在を知り、人間はさほどにも単純ではないことを知る手がかりを得て、

学校で教えてもらったような清廉潔癖な世の中にいつまでたってもならない理由がわかったような気もした。

 

大袈裟に装飾された話も多い?

そんなこと子供じゃあるまいし、わかっているに決まっている。

それを除いても、という話だ。

 

”悪い状況”として話しているわけではない。

自分じゃそれらも有益ととらえている。

聞くにも忍びないほどの汚い罵り。喉から血が出そうな怨念。

それらが”嘘”であることを願いたいが、残念ながら”本音”であることも多い。

 

大体の人は良識がある。

だから...

思っていても「現実の世界」じゃそれを吐かない。

吐いていなかった。

そこに登場したうってつけの”井戸”がネットだった....と、思うのだが....

 

誰にも気付かれないように、こっそり井戸に吐いたつもりの言葉が...

「人としてあるまじきでない言動」やら

「良識というものを全く身につけていない人格」やら

として断罪される。

ひょっとしたらば断罪する側も大して立派な行動しているわけでもないのに、言葉の上での良識の優位を刀にズバっと斬り付ける。

 

道徳の公式に当てはめるなら、

そりゃ言われてしまえばそうだろう。

見つかってしまったということは”井戸の外に引っ張り出されたことになり”反論できるわけもなく”謝罪”するしかないのだろう。

 

....なら...言わなくなるよな。

二度と。

本音を。

 

そしてそれほどまでに誇張する道徳心や公共心に現実の世界も”ちゃんと”満ち溢れているのかな?と。

 

悪いがどんなにきれいな文章でも、”よそいき”の文章なんて、空虚なだけだろう。

どっちかっていうと”本心見たくて”ネットやってんのに、そんなキレイ事の文章なら、新聞、テレビ、雑誌で十分なんだけど。