小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

堂々巡り

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「気がついたら....”もとの場所に立っていた”....というような話がよくある。

 


実に共感する。

山の中でも、街の中でも、

「あれっ?コレってもともと居た場所じゃない?」ってと。

 


が、”その場所”は”実はとても大事な場所(ポイント)”であるように思うのだ。

 


大概の場合、目的地や目的地への道を見失っていて、「あっちかな?こっちかな?」と右往左往している様だと思うんだが....

それは...目的地どころか、目的地への適切な道さえ見失っている状態なのに....

その”もとの場所”は覚えているほどに記憶があるのだ。

 


この現象は言い換えるなら....

”もとの場所”までは間違っていないし、記憶も確かだということ。

つまり、”それ以上”は遡る必要はなく、”そこから”リスタートすれば良いわけで....

「元に戻ってしまった」....のではなく、絶好の目印を偶然にも再確認出来たような事態。なのだ。

 


これも「神の思し召し」の一種じゃないのか?

人間なかなか自分じゃわかっていない。

几帳面で丁寧な人ほど...

「最初まで」戻ってやりなおそうとしたりする。

そのご丁寧さも悪くないが、実務的に膨大な時間がかかるし、正しかった足跡を再びなぞるだけというのに無駄は少なくない。

 


これは脳内でも起こる。

実は昨日の友人との会話の中で起こった。

自分じゃ堂々巡りになっていると思っていた。

が、「ん?」と考えてみたらば、「もとの場所」を再確認したことで....

自信とまではいかないものの...

「そこまでの考え方に間違いはないんだろうな」

ぐらいには思うようになっている。

 


単純な私は、それ以前の思考はスッパリ捨て、

「”そっから”考えればいいや」という気に見事になっている。

 


堂々巡りも無駄にはならない。

 

リアリスト

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最近...「神の思し召し」という言葉が気に入っている。

「しょうがない」....に通じるものがあるのかもしれないが....

”投げやり”ではなく”前向き”に捉えている....つもりで。

 


諦める場合の「かっこうの言い訳」かもしれない。

それでも...「それ以上の被害」を防いでいたりしてくれているように思える時は少なくない。

 


何度も忘れ物に気がついて、自宅に戻ることを繰り返していたらば....

いつもの道で大きな事故があったりとか....

あまり出かけたくない飲み会に出かけたらば懐かしい友に出会えたりとか....

 


リーマンショックの時に諦めていた到達年を超えて1年になった。

妙な言い方だけど....ここまで生き延びるプランはリーマンショック時には「考えられていなかった」わけだ。

なので1年余分に生きられている感じがある。

 


まだそんなところで恍惚としている年齢じゃないんだが...

それぐらい「有り得ない」と思っていたのも事実。

 


だからなのか?切り返すには少し早いような気がするにもかかわらず....

「これまでとは違った生き方」への路線変更を促す事態が手を変え品を変え次々にやってくる....ように思えている。

そう、あたかも神様も勧めているように。

 


「下り坂」への決意もその一つなんだが、どうやらそれではまかないきれない....逃れられない?....選択の決断の時期が近づいていると感じている。

いや、決して悪い事態でもないのだと思う。

思わなくてはいけないと思う。

 


何度も書いてきているが、人間には寿命がある。

最近やたらと人生100年と言うが、少し無責任な表現だ。

「今のまま」が100年続くはずがないのに。

 


逆算すりゃわかる。

わずか70年前は戦争をしていた国が....

100年間の”安心”をどうして語ることが出来る?

かましいにもほどがある。

 


そう、あの戦争とて、無かった上でのように語る者が続々と出ている。

老いぼれるということだけでなく、時代の進行が追い抜いて行く。

 


「90歳を超えてもこーんなに」

と大袈裟に取り上げているんだが....

悪いが”現役”とは全然違うじゃねーか。

お世辞だけじゃなく、賛美も含めて「こーんなに」と褒め称えてくれているんだろうが.....

それは”事実”じゃない。

砂漠の中に見える幻想のオアシスの水が「美味い」かのようなことを言っているに等しい。

 


そんなことを言ったら身も蓋もないのかもしれないが....

”事実”ではないことを盲信してロクな結果になることはない。

耳に優しいロマンチックやファンタジックは覆い隠せない冷酷な現実の前じゃあ刃になる。

それでも理想に固執して、現実社会に対応できない人がどれだけ居ることか....

 


俺はまだ”現実を”生きている...つもりだ。

大して楽しくない毎日どころか、嫌な場面が毎日毎日登場もするんだけれども....

とりあえず呼吸は出来ているし、手の感触もある。

だから、こんな現実でも対応していかなきゃと思えている。

 


こういうのをリアリストと言うのだろうか?

が、自分じゃそんなの「世のお父さんとして超当たり前じゃん」としか思えない。

俺のロマンチックな自慢話で家族は生きていない。

俺の稼いでくる金で飯食って生きている。

 


そこから....

でしかない。

断ち切る

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とはいうものの....

最近じゃあ自分の記事を更新するのが精一杯で

なかなか皆さまのブログを読む時間までの余裕がない。

なので、申し訳ないが....

ほぼ走り読みだ

 


でも、感心する。

内容にも、文章にも、写真にも

そして、そんな人が大勢居ることにも。

 


まあそこから「下り坂の人生をも受け入れた」.....とまではいかないんだが....

誘因の一つにはなっている。

 


自分のブログが「自分に向けて書く」という今のスタイルになってきたのにも影響はあるだろう。

人様のことをどうのこうのと言及する立場にはなく、せいぜい言及できるとするなら”自分のこと”ぐらいしかない。と。

 


思いもよらない顛末は.....少し哀しいけど、悪い気はしていない。

むしろ自惚れたまま、的外れな文章を自慢げに披露し続けていたならば....もう....滑稽過ぎていたたまれない。

ある種自分の親が書いているとしたら...のようなブログになっていたことだろう。

 


商家なんかじゃない。

サラリーマンにさえもなれなくて、商売を始めるしかなかったことを肯定し過ぎて自慢話に変えている.....

そんなブログを書いていたかもしれないところを....

 


はてな」の皆さんに引き戻してもらっているのかもしれない(笑)


相変わらず、お隣と屋根続きの家に住んでいる両親は、先日も...

「帝国ホテルに続いて富士屋ホテルに行ってきたけど....あんまり料理は上手くなかった」

と、自慢のような批評をしていた。

 


何様なのか何が言いたいのか?もう全然わかららないんだが....

恐らく本人達良かれと思ってしている言動が本人達にマイナスに働いていることだけは確かなようだ。

 


そんな人間にはなりたくないし、なるべきじゃないだろう。

親の遺伝を断ち切って進化したからこそ生き延びてこられた生き物も居るのだから。

 

俺はお前らとは違う

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今、思うと”自惚れ”を超えてもう”お粗末”なんだが....

はてな”に来る前は....これでも....

「文章を書くのは上手な方なんだろう」....と思っていた。

いやいやこの告白さえお恥ずかしいんだが....

 

文章だけじゃない。

お見せする内容や生活も充実していると思っていた。

なんせ「我が家は他の一家とは違う」家庭で育ってきた中での...逸材(笑)だったので。

 

まあ、当たり前に残念なことに....

”我が家”なんて何も凄くないことを知るのは時間の問題だった。

日に日に、確実に、わかってきた。

 

文章も

写真も

旅の経験も

スポーツの結果も

料理も

趣味の腕前も

仕事も

断捨離も

読書も

音楽鑑賞も

何も凄いものがないのだ。

 

母の料理を父はよく自慢していた。

いや、本当に上手でバリエーションも多いと父は信じていたのだと思う。

それはそれで愛情麗しくて良いんだが....

「全然料理には期待しないでね」と言われていた嫁の料理と比べるならば....

 

いや、嫁が凄いわけじゃない。

謙遜ではなく本当に普通だと思う。

ただ、大したこともなく「凄い」と本当に思っていた自分の親がおかしいのだ。

 

そういえば....思い出せる料理のパターンは極めて少なく.....

ハンバーグはマルシンハンバーグだったり、とんかつは近所の肉屋のものだったり....

よーく考えたら、作ってないものまで「おいしい手料理」として出されていた気がする。

 

もちろん、その手法に文句を言っているんじゃない。

ただ....それは”料理上手”と自慢しちゃダメだろうということ。

 

凄い一家なのではなく、頭がおかしいほどに自惚れた一家だったとしか思えようがない。

そして学校生活が何故にかうまくいかなかった理由が少しわかるような気がしてきた。

「俺はお前らとは違って出来のいい人間なんだぜ」

なんて顔していれば、そりゃあうまくいくはずもないってもんだ。

いや、全然出来てないんだけど

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このブログでよく書くように以前は相当に自惚れていた。

いや、今だって結構修正したつもり.....になっているだけなのかもしれない。

 


まあよくあるように視野が狭い。井の中の蛙。だったからだ。

そして割と近しい父親と先輩に昔の自分を見ている。

 


彼らには悪いが、本当に醜い。

自分もそうだったのかと思うと尚更醜い。

 


武勇伝は当たり前。

他の人が話の中心、話題の中心になっていても入り込み....

自分が中心、自分の話題が中心になるようものすごく努力する。

そのくせ話は面白くないので、その集まりはどんどん人が去り、結局一人残されている。

 


周囲から見てみると.....

よーくわかるもんだ。

 


はてな」に来るまでの自分はそんなもんだ。

はてな」以前にもブログを書いていたが、自分のことはさておいての....社会批評や人のことが多かったし....何よりも....「自分は出来る人間だ」

と思い込んでいた。

今じゃ笑えているんだが....

人様が感心するような文章書いている....と盲信していた。

 


親の影響は大きい。

借家長屋の貧民街のコンプレックスの裏返しだったとは思うんだけれども.....

「我が家は特別。家族全員”出来る人間””特別な人間”」と洗脳していたからだ。

 


「俺は親の影響なんか受けているはずがない」

と自信満々に思えること自体が

見事に親の洗脳の証拠だったのだろう。

 


はてな」がその鼻をへし折ったわけでもないんだが....

タイミング的に、「はてな」に来てからであることと、

はてな」で様々なブログを拝見するようになってから....

 


自分の「出来なさ」「出来てなさ」に気がつくようになったのは確かだ。

誰に媚び諂ってんの?

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訳あって....面接を手伝ったりすることがある。

失礼ながら事業?とは言えないほどのささやかな働き口にも最近じゃあリクルートスーツでやって来るのが定番だ。

かつてはこんな光景なかった。

 


一体誰に媚び諂っている?

それが社会の常識なのか?

 


...妙に哀しくなってくる。

仮に働くことになったとしても....制服もないような就業場所にだぞ....

さっぱりした清潔な身なり....じゃいけないのか?

 


暴走族、スケ番、校内暴力、木暮修.....

そりゃあ実際には相当に社会の邪魔者だった。

見られなくなった現在は安心な世の中になったと言えるのかもしれない。

 


が、なんだか”はけ口”がごっそり削ぎ落とされた気がするのだ。

この季節になるといつしか決められたクール・ビズとか言う、全然格好よくないファッションに身を包まれるリーマンの多いこと。

それじゃないと駄目なのか?

 


「誰」が決めているのか知らないけれど....

ある意味とってもうまいこと行っていると思う。

「誰」かが決めた通りに生きていないのは落伍者なんだよと....精神的レッテルを貼ることに。

そして....そんな人は要らないし、面倒は見るけど、我々と違った場所で生息してね。と。

 


そんな「誰」かに盾をつこうとは思わないし、盾をついたところで気がつかれもしないだろうなら....

俺は俺で「誰」かの、ではなく「俺」の好きなように生きていたいな、と。

 


「誰」かは言う。

「”みんな”で一生懸命頑張って上っていきましょう」と。

あたかも選挙前の言葉のように。

それは......

一生懸命に勉強をして、スキルを身につけ、仲間である証拠のリクルートスーツを身につけて.....

さらにお互いしのぎを削って.....

「私達とともにこの国を栄えさせましょう!」という合言葉であるかのように。

 


最後まで残れた者は....「仲間」かもしれないんだけれども....

その手前で負けた者は....「手下」と思っているんじゃないのか?

そしてその手下のくせして、そいつの前にも敗退した者は...「手下の手下」って思われているんじゃないのか?

 


最初っから脱落した奴なんて....

ここに書けないほどの差別用語相当ぐらいの認識なんじゃないのか?

「弱者は救わねば」とか格好の良い表現にして。

 


俺は....

とっくの昔に負けている。

いやさ、そんな社会の構造すら興味もなかったので知らなかったから、最初っから除外された存在として生きていたのかもしれない。

 


「気がついたのが遅すぎた」

 


...ならば、俺は反対の「下る方にでも行った方が、幸せになれるかもしれないな」と。

というか、そっちにしか生かされる道は無いだろうと。

なんせ「上り道」は、多くのみんな、と競争しなきゃいけないので。

さらに「上の方々」に媚び諂っていかなきゃならないので。

そんな自由ぐらいあってもいいよな、と。

一回限りの一生だ。

 


こんな俺でも一応頑張ってはいるのだ。。

ひょっとしたら「上り道」の人よりも頑張っていることもあるかもしれない。

でも、願いが叶わなかった時、思うように行かなかった時は....

 


「しょうがないよな」

でアッサリと諦めるようにしている。

それ以上頑張ってビョーキになんてなりたくないので。

学校の先生のように「心の病」になったとしても休業補償なんてもらえないので。

自分の事は自分でしか守れないので。

 


暴走族、スケ番、校内暴力、木暮修.....

そんな時代は、そりゃあ低レベル、低能、粗雑な時代だったのかもしれないけれども....

ガリ勉でのし上がってきた能書きだらけのエリートどもに媚び諂わなくても生きていけるステージが許されていたように思う。

 


いい歳こいて今更

暴走族、スケ番、校内暴力、木暮修.....

になろうとは思わないけれども

 


残党として....

「しょうがないよな」を合言葉に自分の健康体を維持しようとは努めている(笑)

 


道なんて上っていようと下っていようと大した問題じゃない。

自分のやる気がなくなる方が大問題だ。

俺に何かがあっても「誰」かには何の損失もないだろう(いや、利得になるかもしれない)けど....

「誰」かの知らないような下界にはこんな俺でも居なくちゃ困ってしまう人が居るのも現実。

 


俺が大切にすべきなのはそっちだろうと。

だから「”大志”なんて必要無い」とハッキリ言っているのだ。

 

”大志”の前に必要なこと

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このところは「異常な運転事故」のニュースの方が強調されているんだけど....

少し前には「先生による....○○...」だったり、DVだの、■■ハラスメントだったり、部活の....スポーツ指導の....

なんてニュースが頻発していた。

そして....教師には「心の病」で休職している人が山ほど居るということでもある。

 


「バカヤロウ」

と、殴って、泣いて、笑って夕陽に向かって走れば解決するような時代ではなくなっているとは思う。

 


が、現状の”社会の歪み”と、要求される”正義の姿勢”が乖離し過ぎてしまって....

ふさぎ込んでしまう自分を守れなくなっているんじゃないかと推測する。

 


もちろん事はそんなに単純なことじゃないとは思う。

先日東芝の追い出し部屋が話題になった。

いまやっている「集団左遷」は冗談じゃない。

俺も実際の場面を知っている。

学校で教えられた”正義”も”優しさ”も”思いやり”も”チームワーク”も通用しない。

....どころか、それを捨てた者が生き延びられたりする。

 


教員の世界がどうだかは知らないし、肩を持つつもりもないし、同情もしないんだが....

心の病になっても....”正義”って奴を貫かなきゃならないのか?

そんなの”正義”なのか?

......とかは思う。

 


自分の「下り坂思考」の根底にはそれがある。

いや、クラーク博士を否定したいわけじゃあないんだが....

「俺には無理」

だと....”情けない”と思わなきゃいけないのか?ってことなのだ。

 


テレビに出られるような人は多くが成功者だ。

スポーツ選手も、芸能人も、政治家も、それらを語るコメンテイター自身だってサラリーマンの数倍稼ぐ成功者だ。

そんな成功者は無責任に語る....

「前向きに」「一生懸命に」「正義を」「信念を」「優しさを」「思いやりを」は正しい生き方なのかもしれない.....

そして難しくても諦めちゃいけないんだろう....

 


が、テレビにも出られないような凡人にとってはそれらはものすごく高尚な次元なのだ。

多くが....理想とは逆に....弱く、もろく、スネやすく、僻みやすく、ひねくれやすく....

それでいて欲ばかり深いので、理想的な要求は「真実の自分にほど遠くて苦し過ぎる」のだ....

 


芥川龍之介はそんな”世間”を予想していたんだと思う。

彼の描いた”血の海”は地獄ではなくて、”日常”なんだろう。

弱い人間の吐いた血ヘドでできている。

じゃなければ....現在のような地獄のような出来事が毎日起こる社会を説明できない。

 


自分は大して強くない。

いやさ全く強くない。

しかも誰も守ってくれるわけじゃない。

自分は自分で守るしかない。

鬱になってもきっと誰も助けちゃくれないだろう。

今までの行いがあまりにも横柄なので(笑)

それでも.....

せめて”血の海”には居たくないのだ。

理想的な正義も地位も信念も無くてもいいので、ともかく”血の海”にとどまることだけは避けたいのだ。

そこで見つけたのが「下り坂」の生き方だった。

 


”意識の置き方”と言ってもいいいかもしれない。

上を目指す人にとって「下がる」ことは失態であろうし、失敗であろうし、屈辱なんだろう。

それでも、「上を目指さなきゃならない」としたら、そりゃあ強い精神力が必要だろうね。

ワンピースの登場人物のような。

 


あれは漫画だ。

どれだけでも「強くなれる」。

 


自分には漫画のような力はは無い。

 

 

何も諦めちゃいない。

諦めちゃいないからの下り坂なのだ。

前向きじゃないかもしれないけれども...

下り坂の日本だからこそ、そこで住まう決心があるのなら....

「絶対に鬱にはならない」方法を各々が見つけなければならない時代にもなってるんじゃないだろうか?

 


多少長いこと生きていると、心の病になってしまった友人も少なくはない。

自分が....どこまで正確に知っているのかはわからないけれども....

健全に見えていた時は.....大体の人がいわゆる....前向きで、真面目で、忠実な人だった。

いや、そんな「自分でなくちゃいけない」と思っているような人達だった。

が....

折れてしまった彼らはもう....全然別人で....

こんなイカサマ師の俺の方が健全ぐらいなもんだ。

下り坂という割には妙に明るく毎日生きていたりして.....

 


理想的な精神の保持を目指していても.....

”心の病”になってしまうなら.....それを証明できる結果は残せないだろうに.....

 


今の世の中先生どころか親でさえ守ってくれないだろ?

だから「自分を守ること」は理想より優先したって....

バチは当たらないんじゃないのか?....

 


何度も柳に飛びつこうとしても届かない蛙がね....

「?蛙であるよりも柳の枝になっちまった方がうまくいくんじゃないの?」

と思うようになって、ちょっとその実践を始めているというところ。

 


ほらね。

健全な精神は健全な肉体に宿る

とか言うじゃない。