小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

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ごいさんにコメントも頂いて、記事も読んでみたんだけど....

ごいさんのように素直に考えてみるならば...

 


自分の場合は、ま、早い話が後ろ髪ひかれてるってとこなんだろう。

仕事、仕事なんて言っている割には縁遠くなった趣味に心残りがあるんだろう。

それこそ...本当の心の奥底じゃあ...趣味に没頭したい...ぐらいなのかもしれない。

趣味に没頭し遊んで暮らしている奴らが羨ましくって仕方が無いのかもしれない。

深層心理ってやつ?

自分の本音が自分にもわからないほどに押し殺して...

だからなんだか収まりつかない時になると...

ふつふつと出てくるもんだから....

「趣味なんかやらない方が幸せになれる」

とうそぶいて、ネジ伏せようとしているんじゃなかろうか....

 


と、思ったので...あえてポジティブにもならないように、ものすごーく簡単に考えてみた。

 


Q:仕事がしたいのかしたくないのか?

A:そりゃわからない。

 


Q:お金が必要なのか?必要ではないのか?

A:必要。

 


Q:遊びたいのか遊びたくないのか?

A:多分少しは遊びたい。

 


Q:遊ぶためのお金が必要なのか生きて行くためのお金が必要なのか?どっちが必要なのか?

A:生きて行くためのお金

 


Q:遊んでいるのと仕事しているのとどっちが生きて行くためのお金が手に入るのか?

A:仕事。

 


Q:でも、その仕事はあまり楽しくないし、辛いことばかりなんだから、やっぱり遊んでいた方がいいのかな?

A:いや、それだとお金を使うだけになってしまうので仕事は嫌でもしなければならない。

 


Q:遊びをゼロにしたらばストレスはたまるかもしれないけど、とりあえず生活は出来る。が、仕事がゼロでは生活できなくなる?

A:その通り。

 


ということ。

選択もくそもない。

まずは仕事、嫌でも仕事、遊びたいとしても....仕事の後で。

よほどのお金持ちでもない限り、そういうことになっている。

それだけのこと。

それに順応しないと生きて行けないということ。

 


なら、辛かろうが、、面白くなかろうが、ともかく、何らかの、仕事はするしかないわね。

ということ。

 


ほら、結論、すぐに出た(笑)

 


どうせ嫌でもやらなきゃならない。

どのみち逃れられない。

なら、少しでも、嫌じゃないように、辛くないように、面白くなるように、工夫した方が「早いんじゃないか?」

 


「遊び」を充実させて、そこをストレスの発散の場にする手もある....と聞くこともあるんだけど....実際やってみたらば....「仕事」に戻った時の嫌さがかえって増幅されちゃったりして...

当たり前だけど、そりゃ「仕事」に対処しているいるわけじゃないんで...

 


ま...多分...こんなことを考えてここ8年ほどやってきている。

成果?堂々巡りしているだけのようにも感じているが、かれこれ8年こんな感じで生き延びられていることが成果なのかな?

全く調子が良いということなく、毎回ランナーを背負うような苦しい場面ばかりで、なんとか変化球でかわして投げ続けている、ってな印象だ。自分じゃ。

 


以前は趣味の道具には異常にこだわるクセに、仕事の服も用具もどうでも良かった。

鞄どころかボールペンを買うなんて信じられないことだったんだが...

今や買い物はほぼ仕事関係もののみ。

少しでもやる気が出るように。ってなわけで。

 


多分...画期的な解決方法なんて無いんだろう。

日本を統一した徳川家康でさえ...人生は”重荷”を”背負うて””坂道を”行くが如し....なのだそうだから...

そんな一庶民の分際の自分などじゃあ....

ってどんだけ人生はSやねん。

自業自得

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多分...また明日からは簡単には書けなくなるので....

三連投に挑戦しておくことにする。

 


またまた”趣味”についての話だが...

本当に”真の趣味人”であったがために(決して褒められない...)、そりゃあ語らせたなら...

毎日でも書けるっちゅうねん....ぐらいは書ける。

が、それは自分だけではなく、”時代”の影響も少なくはないと思っている。

 


かつてのCMやらグラビアを見てもわかる。

夏は...ビーチ一色だ。

山下達郎、サザンにチューブと...もう”海”に居ないと格好つかないぐらいに。

真黒に日焼けし、茶髪にビーサンの方が、堅っ苦しいスーツなんかより、うんと格好良かった時代だった。

将来シミだらけになったり、ハゲの原因となることも恐れずに。

 


当時、30年も経つならば...ひのき舞台は”海”じゃなく、高層ビルが立ち並び、荘厳な夜景と近代化された町並みこそが”格好良さ”の背景となっていることなど誰が想像したであろうか...

大切な...車の屋根に等身大のサーフボードを乗っけるよりも、手のヒラに収まるスマホを軽快に操作出来る方が....

いやさ、車なんか持ちだすよりも、suicaで颯爽と乗り換えする方が....

シミだらけの顔よりも、男子でさえ美顔である方が...

派手なTシャツと短パンでは霞が関あたりじゃ乗り降りできないぐらいに.....

時代も変った。

んだと思う。

 


それにはもちろん経済的背景だったり国際情勢も関係していることだろう。

が、そんなものは個人でどうこうできることでもない。

ある意味適応して行くしかない。

”車離れ”なんて言われるが、私より未来に敏感な若者は、それをちゃんと選択しているんだと思う。

「持てないことが情けない」んじゃなく「持たないことが利口で格好いい」ぐらいにはしてやろうと思っているんじゃないか?

 


”趣味”についても同様。

ギャグとしちゃあ面白いかもしれないが、バブリーな時代を過ごせていたのなら、どうしてその未来の現在に、もう少し投資をしておいてくれなかったのかと....

年金を始めとして次世代の者の不安をどうして少しでも取り除いてくれなかったのか...と。

 


「おかげで趣味どころじゃねーんだよ」

という若者もたくさ知っている。

その通りだ。

 


自分の若い頃を思い出しても、正直大した選択も決意もなく就職も決めた。

その前の学校選びだって真剣に選んだってことでもなかったように思う。

就職しながらも「次は何やってみようかな~」などといつでも転職できるようなことを考えていた。

当たり前だが、今はそんな時代じゃない。

 


かつての....”趣味な時代”を過ごせたことってのは...果たして”幸せな”経験なんだろうか?

今はよくわからない。

わからないが...

遊んでいた分その後苦労することからは逃れられないのか?とは思わされる毎日だ。

ま、それを自業自得と言うのでしょう(笑)

 

趣味人から仕事人に

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ちょっと連投を試みてみる。

 


...しかし...へったくそな文章だ。

昔はもう少しはまともな文章が書けたと思ったんだが...

脳の老化が進んでいるのだろうか?....

ぐらいに。

 


話しは変って”趣味”の続き。

父も母も、どころか父方も母方も、趣味一家のような環境で育ったので、幼少の頃より”趣味”に重きを置く人生だった。

違った言い方をするならば、「本業を二の次にする」人生だった。

学生時代もそう。

本業のはずの授業はそっちのけ、趣味とも言える”部活”のために登校していたようなものだし、それらをひっくるめても、”帰宅後”が人生のような生活だった。

8年前までずーーーっと長い間そうだった。

 


ある意味それで生きてこられたのだから、幸せな人生だったとも言えるんだろうが、そんな人生がずーーーっと続くはずもなく、今の状況がある。

それについては今までも散々述べてきたので今日は割愛。

 


ただ...歳を取ったということもあろうが、かつての”趣味”は大なり小なり、「格好良い」と思っていたらか取り組んでいたものが多かったのに...それに魅力を感じなくなっているというのが不思議なところ。

それがスポーツであるならば、とても同じようには出来ない。

が、歳を取っても若者のスポーツにそれなりに取り組んでいる人は大勢居る。

プロのような動きが出来なくとも、それなりの楽しみ方を見つけることは不可能じゃない。

ましてや、毎週末必ず家には居ないほどにどれもこれも熱中していたのだから、止めてしまうのももったいないとも言える。

 


なのに遠のいてしまっているのは、もちろんその分”仕事”をしなければならなくなったってのもあるが...

いわゆるあれだけ”本業”に見向きもせずに”趣味”を大切にしていた自分が、”趣味”に振り向かずに”本業”に取り組めるものなのか?と思っていたぐらいなのに...

案外平気なのが、自分でもとても不思議に思っている。

というか、”今”はどのみちそうせざるをえないのだから、余計なことを考えないように、このまま、そっとしている。

 


ただ...

自分でも少し考えているのは...

かつて...あれだけ”本業”に打ち込むよりも、数段格好良い、と思っていた”趣味の成果や打ち込みぶり”は、身勝手だけれども今は何だか?あまり格好良いとは思えない。

「そんなことないよ」と囁いてみても...やっぱりあまり格好よく思えない...

相変わらず”趣味人”な友人も多く残っているが、今でも趣味を優先している生活の出来る彼らが羨ましいと思うこともない。

いや、どんな生活を送ろうが、その選択も自由だろうが、趣味に取り組んでいる時だけが麻薬の快楽状態であるかのような人生を”今の”自分が送ろうものなら、その他の時間は不安で仕方がないと思うだろう。

だから、仕事を犠牲にするような無理してまでやろうとはしないんだろうが....

 


今の自分はどうしたって仕事をしなければならない。

もう理屈じゃない。

家族も居れば、老後もある。

ともかくお金は減るよりは増えた方が良い。

そうなりゃ仕事をするしかない。

どのみち逃げられないので、好きとか嫌いとかを深く考えることに時間を費やすよりも、「やりたい」気持ちに持ってゆくことでも考えた方が自分のためにもなる。

ある意味...

かつて本気で取り組んだ”趣味”のように仕事がなればいいのかと....

 


急に...そこまで考えたのではないけれど....8年ぐらい前からかな...そう言えば....

服を買うにしても、趣味用のモノはほとんど買わなくなって....

買うにしても...”仕事用”のものがほとんどになっている。

カバンとか用具もそう。

ボールペンなんか欲しくなって買ってしまったりもする(笑)

もちろん仕事なんて、みんな真剣な場なので、うまく行かないし、辛いことや挫折することのが多いし、楽しい場面なんてほとんど無いのだから...

「面白い」ということ自体に無理があるんだが....

それでも...

今は”趣味の達人”には興味がなくなっている。

どっかで路線変更を意識した訳じゃないが...いつしか”仕事の達人”に興味を持つようになり、出来ることなら残り少ない人生の中で、少しでも”仕事の達人”に近づきたいと思うようになっている。

 


趣味人一族から初めて誕生する”仕事人”になりたいと思っているのかもしれない。

唯一の趣味

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記事の更新も間隔が空いてしまうぐらいなので....

スターを付ける習慣に時間を取られるのは正直シンドイ。

が、礼儀というか、暗黙のルールもあるような気がして、最低限は付けるようにはこれでも努力はしている...つもり...

 


...ぐらいなので

はてな」を軽く扱っているかのように思われるかもしれないが、新聞だって平均一日一分と読めていないだろうし...

テレビも平均すれば一日一時間がいいところ...

しかも、ながら読み...ながら視聴...

 


からすると...

これでも「はてな」には時間を割いている方なのだ。

 


はてな」には真面目な方が多いと感じている。

もちろん、選んで購読しているので、そうではない方も居るんだろう。

が、見させていただいている方は、皆真面目だ。

 


正直....「はてな」には重い方も多いように感じる。

が、それとて不真面目だからではない。

 


自分が少しばかりにでも...

頑張れているのは...「はてな」は無縁じゃないと思っている。

軽々しく人生を生きてきた自分にはリアルな生活で「真面目な知合い」が非常に乏しい。

居たとしても妙にひねくれていて、素直に肯定できなかったりする。

ゆえの軽々しい人生の選択でもあったかもしれない。

 


が、「はてな」に書かれている「真面目な所見」には、こんな自分でも素直に反省させられことが、実は少なくない。

ある意味「これだけちゃんと考えられてきているのに、それでもなかなかうまく行かないんだ...」と思わされると...

半分フザケの軽々しい対処でスリ抜けてきた自分の人生が、そうそう上手く行くはずもない...わな...」と...

「遅すぎた努力かもしれないけど...それぐらいないと帳尻合わないよな...」と。

素直に思わされることは、実は多い。

 


一日は24時間しかない。

一週間も7日しかない。

今現在はそれ以上の時限までを想定することが出来ないが....

その中で、

努力の種目を増やしたり、努力の範囲を広げようと思うなら...

そりゃあ何かは削らなければならなくなる。

断舎離とまでは言わないが、何もかも全部をやろうとするのは物理的にも無理なので。

 


そんなところから気が付いてみれば...多くの遊びや趣味やレジャーから離れている。

「止めよう」と決意したことはなかったと思うんだが...

まさに、気が付いたら離れている...

あれだけ好きで好きで仕方のなかったことや....止めようにも止められない...と思っていたことから離れている。

自分だって「どうしてなのか?」わかっちゃいないが....

...ある意味....ということは...「もともと大して好きでもなかったんじゃないの?」ってなことまで思ったりもする....

 


けっこう用具を伴うことも多いので、今はその残骸に囲まれて暮らしている。

いつの日か”復活”することもあるかもしれないので、今のところは簡単に捨てられないが...

こうしているうちにも、もう取り組めないカラダになってしまうかもしれない。

 


今の趣味は「飲みに出かけること」だけかもしれない。

カラダにはあまりよくないかもしれないけど....(笑)

あれだけの多趣味がせいぜい「丈夫なカラダ作り」ぐらいにしか役立っていなかったことを思うと...

ま、そのくらいで丁度良いかもしれないのかな?とか、思う。

 


ついで言うなら...唯一の趣味?なので店にはけっこうこだわるようにしている。

日めくり

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”怒り”を抑えていれば、”目標”は自動的に達成出来るかといえば、当たり前だが、そんな甘いもんじゃない。

目標達成への努力も勿論必要だ。

 


自分程度の努力は世の中じゃあ”努力”と認められないのかもしれないが、とりあえず○年計画の期日までには達成できる程度の努力はしている。

ということは、正直”楽な毎日”じゃないし、あまり楽しいわけもない。

それはしょうがないところ。

似たような経験は唯一大学受験前のわずかな期間か?

 


大学受験は...もともと無い話、だった。

なんせ成績も悪いし、出席自体が乏しかったので。

が、いろいろな人の協力あって、「あるかも?」になり、センター試験の40日前に覚悟を決めた。

当時の学校には申し訳ないが、授業中を含めて一日12時間以上勉強することに。

というか授業中を含めないと無理だし、あまりにも遅くに始めた受験勉強なので、それだけやらないと追いつかないのも見えていたから。

 


受験生にとっちゃあ普通のことなのかもしれないが、学習経験の少ない自分には強烈なプレッシャーだった。

嫌で嫌で仕方の無い毎日になった。

そこで登場させたのが自作の日めくりだ。

いわゆる「あと何日」というやつ。

一日が過ぎ、その日めくりを破り捨てると....

なんだか少しは我慢も報われるようで、しかも目標にも一歩近づいたような...気になった...ので、毎日几帳面に続けた。

 


今の目標も相当に厳しいし、というかよく考えれば大学受験より厳しいに決まっていたし(笑)

何よりもそこに向かう毎日が苦痛だ。

なので、実はPC内に「日めくり」が用意してある。

今年から始めた。

毎日は実際に見ていないし、見られない。

なので、気が付いた時に更新しているんだが...

あと896日だったのが、ぼやっとしている間に863日になっていた。

なんだかほっとしたんだが....それほどにまで早く歳をとっている...ということでもある。

残された努力時間の短縮とともに人生の残り時間も短縮しているということだ。

早く63日消化して、残り700日を切りたいんだが...

それは寿命を63日使うことと同じことなんだと...

 


というかすでに今年も1/12が過ぎたことに驚いている。

 

怒りへの対処法~その2~

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setaさんよりヒントを頂いたので、昨日の補完を含めて少し書いておくことにした。

 


昨日書いたような”長ったらしい理屈”を怒りが噴出しそうな直前に唱えるわけではない。

というか、そんな時に唱えられるわけがない。

 


なので、現実にはどうしているのかというと...

案外ただボーッとすることにしている。

じっと怒りを抑える...にはほど遠く、むしろ”遠くを眺めて呆けている”状態に近いんじゃないだろうか?

自分じゃ見られないけど。

 


そうやって、ただ、本当に、ただ、”怒り”が通過してゆくのをやり過ごしているだけのこと。

 


なんだか一見情けない対処法だ。

若い頃、ドラマや漫画で影響を受けたヒーローは皆怒っていた。

”正義のために”という御旗はあるものの、格好よく怒って悪者をなぎ倒していた。

そんなイメージからするならば、自分はヒーローからはほど遠く、戒めるべきをただただ黙って見逃す弱虫だ。

 


恐らく....若い頃からずっと、”そう”はなりたくなかったんだろう。

出来る限りは”ヒーロー”のように振舞いたかったんだろう。

だから多くの場面で”怒ること”を選択してきた。

それは”怒っている自分”がヒーローであるかのように錯覚していたってこともあるんだろう。

 


が...”怒った”結果としてはうまく行かないことが多い。

それでブチ壊し、終生疎遠となったこともある。

どうしてそうなってしまうのか?

と考えてみたらば、当たり前だが、ドラマや漫画の主人公は怒っていても、作者や脚本家は怒っていないから、”その後”もうまく行くのである。

怒るほどのエネルギーがあるのなら、そのエネルギーで、”今後のこと”を考えた方がうんとマシな展開になっていくだろうという、まあ、当たり前の、普通の、考えに至っているだけのことだ。

それが普通の人より遅くなっただけで。

 


怒る前に”今後のこと”を考えられるほど冷静ならば、これまでももっとうまくやってこれただろう。

それほどに急には人間変われない。

で、とりあえずボーッと呆けてしまったとしても、”怒る”よりはマシかな?と。

そこに留めるような努力はしているつもり...

怒っちゃいけない、怒っちゃいけない、と無理に封じ込めようとするとかえって暴れ出しそうなので、怒りさえも忘失するかのようにボーッとした方が良いのかな?と...

 

 

実際には頻繁にイラついている。

頻繁に怒りそうになっている。

その都度ボーッとしている。ボーッとしようとしている....ってことは...

結構一日中ボーッとしているということ。

ま、そんな程度の人間だ。

 

怒って良いことあるの?

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”実力よりも運が鍵を握っている”とは書いてみたが...

ちょと違うな。

運を味方につける行為の影響は大きいだろうな、と言い直すべきか。

 


よくある”風水”とか”幸せカラー”とかの研究とか”方角にこだわる”の話しじゃない。

身勝手な喜怒哀楽に任せない。

といったところか。

 


代表格はいつも言うように、自分の親父だ。

大嫌いだったし、いまだに嫌いだ。

こういう話をすると「なんて親不孝な」という人がすぐに出てくるが、世の中には「同情できる親殺し」が実際に起るわけで、何も知らない人の意見なんざ聞く気もない。

自分の親を見て「こんな大人だけには絶対になりたくない」と思って育ってきたのだから、その責任も自分で取る。

ただ...

哀しいかな、”環境”とか”DNA”とか”遺伝”とかの影響は避けられないのもあるようだ。

”大嫌いな部分”が似てしまっていたりもする。

 


自分を振り返らなかった若い頃には気が付かなかったが、今はわかる。

そんな行動を取るべきじゃないのに取ってしまう。

そんな感情を抱いてはいけないはずなのに抱いてしまう。

冷静に考えれば、事前に対処できたはずなのに、感情に任せて失敗している。

誰のせいでもないのに、その失敗で怒り狂う....

まるで”親父”だ....

 


運が逃げる...

ということではないと思う。

ただ...

そんな自分勝手な喜怒哀楽を蒔き散らかすヤツは...

早い話が、信頼されない。

尊敬もされない。

面白がられても本当には好かれない。

安心されない。

できたら距離を置きたいと思われる。

仲良くしていたいとは思われない。

結果...

本人気づかずの孤独になってゆく....

だから...

賑やかなところを見つけると...積極的に割り込んでくる....

そして...さらに...人が離れてゆく....

 


昔は特に、漫画でも、ドラマでも、直球一本やりのわかりやすい”主人公”が人気のあった時代もあったが...

それは「距離を置いたフィクションの物語の話」

現実にそんな奴が隣に居るならば、あまりにも自分中心で迷惑な存在だ。

自分の親父は今現在でもそんな態度で、しかも自分自身はそれを「正直者の少年のような性格」と思っているので、まともな人は誰も相手にしていない。

...そういうことだ。

 


世の中「自分の力だけで」成功できることはそれほどない。

いろいろな人の助けあって成せることがほとんどだ。

喜怒哀楽は赤ちゃんなら大袈裟でも可愛いらしいが....いい年こいた大人は”少年のようで”では済まされないだろう。

それは...余りにも自分に甘い。

 


自分にはそんな甘いDNAが潜んでいる。

それに気が付いたのもごく最近。

そして、そこまで咎めたならば自然な振舞いなんて出来なくなるんじゃ....と、それが親からの脅しだ。

親をみくびらないように、親を嫌いにならないように、「喜怒哀楽は我慢することなく思うままに表現するのが人間らしいのだよ」と、言い聞かせてきただけのことだ。

よくよく考えれば母親も非常に激しい感情の持ち主だった。

 


喜怒哀楽を抑えるのは、別に作為的なことでもないし、功利的なことでもない。

むしろ、自分だけの喜怒哀楽の発散は、誰も喜ばない。誰も嬉しかない。

 


気が付いたのが最近だからまだまだよくわかっちゃいないが....

そりゃあ周りを見回して、それ相応に自分の感情をコントロール出来た方が、出来ないよりも周囲は穏やかで居られる。

ましてや、怒られるいわれもないのにイライラされた時の不愉快感を感じた時には....

 


これは”運”ではないのかもしれない。

そしてなんだかこんな聖人君子のような生き方は功利的で気持ちが悪いように見えるのかもしれないが...

心配せずとも目指したところで猥雑な人間が完璧に演じられるわけもない。

ましてや”自分”だ。

 


が、嫌いな親父から本当に精神的にも距離を広げようとするならば

違う人間であろうとするならば、

そして、自分の”次なる目標”を達成しようとするならば

身勝手な喜怒哀楽は、その一瞬手前で「考える」べきだろう。

特に”怒り”は。

 


今日もたまたまそんな場面があった。

内心いつ切れてもおかしかないな、とも思っていたが....

不思議と我慢が出来た。

その相手との付き合いは古いが....「やっぱり大人になったねえ、ものすごく我慢強くなった...」と評していただいたんだが....

そうじゃない。

「次なる目標」を是非とも達成したいだけだ。

 


その副産物として、多少でも大人になれるのなら、それも悪いことじゃないし。