小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

祭りの後

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断舎離というにはおこがましいが....

7年程前からだろうか、妙に身辺整理をするようになった。

 


それは度々記事にも書いてきているんだが...正直、老後の準備、には早すぎるとは思ってはいるものの、昔よりはやっぱり色々見えてきていて....

”見えてきて”いる...というのも、やっぱりこ”れから先が”、であって、

「もう使わないだろうな」「もう似合わないだろうな」...に、

希望的観測が無くなったことだとも思っている。

 


いや、それほどに落胆はしていない。

むしろ片付いて清々している部分も多いし、圧倒的に”体育会系”だったので、それを捨てる代わりに、そうじゃない世界への興味は膨らんでも来ている。

 


片付けている最中にもニヤリとしてしまったりする。

「よくも今まで持っていたもんだ」とか...

 


それから7年なので、結構捨てた。

流石に足らなくなって買い足したモノもあるが...

以前と同じような見立てではやっぱり買わない。

 


妙なものだが、7年前以前を登山とするなら、7年前からは下山ぐらい景色が違っている。

いやちょっと比喩が悪いな?

7年前以前を祭りの前とするならば、7年前からは祭りの後ぐらいに風景が違っている。

そう、祭りの後の後片付けをしているというところなのだろうか?

少し寂しい気もするが、荒涼としているわけでもない。

淡々....か?

 


かといって7年前に祭りがあったわけでもない。

何もない。

はっきりした現象など何も起きてはいないし、きちんとした境目もない。

盛り上がった形跡も無い、が....

大体そんな頃から”想像できる風景”が変化をしてきている。

 


”そんな風景”に抵抗したりもする。

その結果が今のギックリ腰で、これまた非常に治りが悪い。

これも7年前とは大違いなのだから、余計にそう思わせる。

 


この2日間の休みも少し安静にしていたかったが、時間がもったいなくてあれやこれやと所用をこなした。

今、ひと段落したところなんだが....

こうなると、不思議とさらに整理をしたくなる。

早い話がこれまでのモノを捨てたくなってくる。

変な話、捨てるモノを見つけるために、これからの人生を瞑想したくなってくる。

それはあたかも、暇になるとは死ぬ前の準備を思い出しているような錯覚にもなる。

死に急いでいるつもりは毛頭ないんだが、無意識のうちに老いる準備でも始めているんだろうか?

 


今残されているモノ達は、7年前からの整理で生き残った猛者達だ。

さらに簡単に整理されるような輩達ではない。

でも、やっぱり必要ではなくなっているモノがもうある。

あたかも7年でさらに老化が進んでいるという証のような気分にもなる。

 


自分の人生に”祭り”があったようには思えないが、”祭り”を待っていた、”祭り”を期待していた時期はあったと思う。

それが多分7年前までの”祭りの前”の人生なんだろう。

そして...残念だけど盛り上がりのわかるような祭りはやって来なかった。

やって来ないまま....祭りの時期は過ぎ去った。

そして....7年前からは「祭りは来ないままに過ぎ去った」ことを確信して、後片付けに入った....

ということなんだろう。

 


不思議だし、よくわからないが、自分じゃそんなにも嫌な気分ではない。

一つずつ、一つずつ、丁寧に片付けていくことに、少し充実感もあったりする。

捨てることで”来て欲しかった祭りへの未練を断ち切った”ような清々しい気分になったりもする。

 


なんだろう....

下山にしろ、祭りの後にしろ、勢いのあった時代には、たまらないほど寂しく虚しそうな光景しか想像できなかったんだが....

近づいてみたらば、それはそれで味があるというか、ま、嫌だと思ったところでどうしようもないというか、

それなりの過ごし方があるんじゃないかと....

多分...期待してるから、そこでは登山の用具や祭りの前の気持ちは要らないだろうな、と、整理したくなっているような気がしている。

 


あっ、今日はそう考えただけで終わってしまいそうだ(笑)

選択肢

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久々に暖かな週末だった。

少しは遠出をして遊びに行きたい...などとも久々に思った。

 


が、行かなかった。

行けなかったとも言うかも?

ギックリ腰だから。

 


無理すれば...”景色ぐらい”は見られたかもしれない。

が、無理をしないようにしよう、と思った。

 


さほどに翌週の仕事を重視したいわけでもない。

が、正直趣味が出来なくとも、酒の席で大失態起こそうとも、天気の良い日に外に出られなくても、

ストレスはしれている。

と最近は判断することが多い。

多分次の日には気分が変っている。

が、仕事でトラブルになったらそうは行かない。

そんな気分があったから....ま、よしておこうかと...

 


最近は...体調も仕事優先。

スケジュールも仕事優先。

いろいろなことを仕事優先。

かとって仕事に邁進しているわけでもない。

無駄に労力使うぐらいなら....仕事のために残しておこうか....と。

ネガティブ・チャージング(造語)のようになっている。

その方が...自分の気分が楽だというだけのことなんだと思う。

 


要するに「仕事を犠牲にしてまでやることか?」が一つのライン。

「それと収入とどっちが大切なの?」も一つのライン。

それでくくった時に選べることは、さほどに多くはないということ。

 


昔であれば...それで余暇の行動範囲を制限されてしまうような仕事なら、仕事自体を変えてしまえとよく思ったものだが、それも今じゃ笑えるような次元の話。

となればさらに選択肢は少なくなる。

 


チャレンジ出来ないだけでなく、関わることさえ無理なことも随分と増えてきた。

一見寂しそうにも思えるのだが、「どっちにしようか?」と、迷っている無駄な時間はその分かなり減っているはずだ。

 


時々は、そんなことも白昼夢のように想像してしまうことがあるのだが....

「あっ、考えても無駄だし」

とはっと我にかえって現実に戻ったりする。

 


納得出来ている現状ばかりじゃない。

いや、納得出来ていないことばかりかもしれない。

でも、それを変えてしまおうとする選択肢はもはや貴重なほどに少なくなっている。

「我慢しといた方がいい」

からじゃない。

「もう無理だ」ということがわかっているからだ。

仮に㎜単位の成果しか期待できなくても、数少なくなった”やれること”の中でしか努力することも見つけられないからだ。

 


テレビをつければ「平昌オリンピックでの選手の活躍に勇気をもらえましたよね」と興奮して口泡飛ばしているMCもいまだ居るんだが....

そりゃそれで良いとは思うが...自分は正直”勇気”よりも、”限界”をはっきりもらえている。

羽生君や小平さんは自分の手本にはならない。

年齢も能力も素質も努力も

離れ過ぎている。

自分も同じように考えること自体がもう冷静じゃないだろうと思える。

 


諦め?

そうじゃない。

冷静な判断と思っている。

延々と糠に釘を刺していたくもないし、砕けるまでコンクリートを拳で叩いていたいとは思わないだけだ。

 


選択肢が多かった若い頃は、何もかもに挑戦も出来たが、何もかも成果が出せなかった理由も、少しわかったような気がしている。

若かったとしても、オリンピック選手を手本にするほど自分には能力はなかった。

喜怒哀楽

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あまり...良い予感がしない。

平昌オリンピックで盛り上がったところに水を差すようで申し訳ないんだが...

そうなんだから仕方がない。

 


いや、悪いことが重なった時など皆言っていたはずだ。

「悪いことばかりじゃないよ、良いこともちゃんとやって来るからね。」と。

なら、「良いことばかりは続かないよ、悪いことも必ずやってくるからね。」にもなるはずだ。

 


昔は青春ドラマというようなジャンルがあって、森田健作さんやら中村雅俊さんやらを主人公とした明朗快活劇のようなものが流行した。

その主人公は大体喜怒哀楽がハッキリしていて、言動に裏表がない。

つまり、とても正直でわかりやすい人間像に設定されていた。

いわゆる親しみやすく愛されるタイプ、ということだったんだろう。

 


が、そりゃあドラマの中の話だ。

現実の日常生活において、”主人公”気取りで、”主人公でもない奴に”喜怒哀楽を垂れ流しにされたら、親しみを覚えるのか?ということだ。

よく「赤ん坊は屈託なく喜怒哀楽を表現するから可愛らしい」と言われるが、”赤ん坊”が付いているように、大人がそうであって欲しいというものではない。

そもそも喜怒哀楽がわかりやすいということは...

 


異常なほどに涙を流して喜んだかと思えば....

髪の毛逆立つほどに怒り出し、

かと思っていたらば「もう自分じゃどうにも出来ないから助けてくれー」と泣き叫びだし....

最後にゃそれら全てが無かったことのように....「人生やっぱり楽しく生きなきゃね」と平気で出来る人のことを言うんじゃないの?

 


テレビドラマの中じゃ誰にも迷惑かからない設定なのかもしれないけど....

現実の世界じゃあ真面目に対処しようとしている周囲の方が主人公である場合もあったりして、大迷惑だろ、そりゃ。

”赤ん坊”がそれを許されるのは、周囲への配慮が出来なくて当然、だからであって、”大人”が同じように許されるはずはない。

 


.....残念なことに、こんな当たり前のことに気が付いたのも、けっこう最近。

案外友達多いので、皆さん我慢してくださってきたのかもしれないが、思い当たるフシは少なくない。

身勝手な喜怒哀楽で、平平凡凡としたことも賑やかに盛ることが出来たこともあるかもしれないが、舞い上がっている最中に辟易していた人には気付かなかったように思う。

 


精神的に幼稚な自分の父親は、絵に描いたような青春ドラマの主人公気取りだ。

似合っていれば、まだ周囲も我慢できるのかもしれない。

が、自分だけが勝手にそう思い込んでいるので、周囲は耐えられない。

いつも”主人公のつもり”で居られるからだ。

 


気が付きゃけっこう孤独になっている。

孤独になっているのに、「周囲が悪い」とイライラしている。

顔も知らないような電話のムコウのお役人を叱り飛ばしたりしている。

テレビ局になんて入ったこともないくせに、ワイドショーの司会を「コイツは勉強不足だ」とコキおろしている。

そして....自分はそのDNAをしっかり受け継いでいる。

 


別にクールを気取ろうというわけじゃない。

が、周囲への配慮もない喜怒哀楽は迷惑なんだよ、ということだ。

アンタだけが生きているわけじゃないし、アンタだけを中心に世の中回っているわけじゃない。

金メダルに沸く同じ日本の中で、同じ時に、人生最大の悲しみに出会っている人が”主人公”の場合もあるってことぐらいは想像するのが大人だろ、と。

 


平昌オリンピックの直前はどうだった?

やたら北朝鮮の心配だったはず。

それは何の進展もしていない。

どころか習さん、プーチンさんがさらに強権を発動しようとしている中で、トランプさんまで負けてはおれないと強硬発言の連続だ。

そして....葬り去ったはずの森友問題に加え、裁量労働制、期待のリニアに泥を塗る談合問題....

どうして円高なの?どうして株価が急落なの?

って....よく考えれば、ちゃんとそういう事態になっている....

 


だからマジで良い予感がしない。

 


世界の動きどころか、日本の動きだって私にゃどうにも出来ない。

黒田さんの再任は反対だが、誰もこんな私の意見なんか聞くはずもない。

ノリが悪い部類になるんだろう。

あれだけの活躍を見せてくれたオリンピックだ。

その余韻に素直に浸っていれば良いだろうの期間かもしれない。

 


が、舞い上がるような喜びから、泣き叫ぶような悲しみへの落胆は、小説じゃあ面白いのかもしれないが、現実世界の大人としちゃあ、あまりにも無責任じゃないのか?...

 


何が出来るというわけでもないが...どんな事態になろうとも、冷静さを失うほどに大慌てはしたくない。

ので、出来る限りの準備は始めようかと思う。

 


これほどに火を消すような生き方じゃあ青春ドラマの主人公には到底なれないのだろうけど....そんな主人公にはならない方が良いとも思っている。

続いてsetaさんへ

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褒めすぎです。

まずもって”言葉の宝庫”ではありませんし、人様の”気持ちの代弁者”の素質のかけらもありません(笑)

むしろ”素直な記事”はsetaさんの方で、遥か昔にそのようなコメントを書かせてもらったことがあります。

もう忘れていらっしゃるかもしれませんが(笑)

 


何度も話して(書いて)きていますが、ブログの記事をぶつけている方向は残念ですが、全私、です。

おそらくよほどかの気まぐれでもない限り、他の方向見て書くことは無いと思います。

なので....

そんな記事が他人様に影響してしまうとしたらば....

なんだかとても申し訳なく思います。

戒めたいのは”自分だけ”です。

 


別に”S”でもないと思っています。

ただ...ずっと...自惚れていたのでしょうね。

けっこうやる奴だなんて、自負していたんでしょうね。

が、今は自分にバレてしまったんですよ。

小汚らしい生き方をしてきたことが。

そんなはずはない、といろいろ振り返ってみたんですけどね。

余計にあっちからも、こっちからも、そんな形跡が出てきてしまって....

”それ”を一番知っているのは自分だから。

 


そういうことです。

 


このままで一生を終えたくなくなってきたということ。

 


そんな人間で一生を終えたくなくなってきたということ。

 


たったそれだけ。

です。

 


どうしたら良いのかわからないので、ブログに文字で起こして演算しているようなもんです。

 


もう普通には変われない年齢だとか言われるぐらいの年です。

でも、もうちょっとだけ、

あともう少しぐらいは、

ひょっとしたら奇跡的に、

なんとか変われるんじゃないか?

の作戦をこのブログでたてているようなもんです。

 


正直、人様を感動させたいとか、感心させたいとかの興味はありません。

自分にとってはおこがまし過ぎてどうでもいいことになっています。

そんな暇があるんなら、自分の能力少しでも上げたいです。

もうなかなか上がらないんですが(笑)

まずはururundoさんへ

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まず大前提として...頻繁にではありませんが、「読者になった」皆様のブログは拝見しています。

それ以外はほとんど見ることがありません。

理由は...まあ時間がないからです。

 


以前は訪問させていただいた時はスターを付けるようにしていました。

共感したときには多く付けるようにもしていました。

 


が、それは人の捉え方にもよるとは思いますが、自分では、なんだか人様のブログを評価しているようにも思えたので...

ものすごく感心しても”一つ”にしています。

自分には...やっぱりたくさん付けていただくと嬉しいものですから、申し訳なく思う時もありますが、自分はこの方針で行こうと思っています。

 


また、記事を読んでもスターを付けないことも多いです。

基本的には付けてくださった方のを読んだときに付けていくのですが、自分が更新しないときなどに読んだ場合はつけません。

それは....時間がないからです。

スターを付けるのか?

記事を読ませていただくのか?

どちらかしか時間がない場合が多いので

記事を読ませていただく

を選んでいるだけのことです。

私のPCの調子が悪いのか、はてなのシステムが厳重なのか、ページの切り替えに時間がかかるので、手早くあっちこっちに切り替えることが出来ていません。

 


そのような前提で

ururundoさんのブログもけっこう長いこと読ませてもらっています。

一応私は都会?生活なので私とは全然違う人生設計をお持ちなのかな?と思って見させてもらっていますが、こう見えて私「北の国から」のファンだった時代もありまして....

”自然の中での暮らし”には憧れもありました。

もちろん”都会の中”でその実現は無理な話ですし、本当の自然は優しさよりも厳しさの方がうんと大きいと思います。

なので、わかった気になっていてはいけない、とは思うものの、真似事のような再現を試みた結果....

周辺とは違和感のある”半田舎”のような自宅になっている次第です。

 


残念ながら?予想とは違った方向で、仕事がどんどん都会派になってしまっているので、自宅は飲むのと庭周りを整備するだけのために帰るような場所になってしまっていますが、

それでも時折、自給自足の真似事のようなことをしたりしています。

 


ururundoさんは、そんなニセモノの私とは違って、本格的にも自然の中に身を置かれての人生であって、思想・信条へのこだわりに相当に強いものがあるんだろうと感心させらています。

芸術関係のお仕事なのでしょうか?

才能あり、風流な方との交流も多いようで、無粋な生き方をしている私を味気なく思うことも少なくないです。

 


まあ、心配しなくても私の影響なんか一切ないお方なので安心して読んでいられるというのもあります(笑)

心の準備

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仕事の最中とかにブログのネタを思いつくことが多い。

そんな時は即座に書きとめておくようにしている。

今日もそうだった。

 


が、何で仕事中なのかと考えてみたときに....

自分のブログのネタは自分に向けてのものだということを再認識した。

 


誰かに喜んでもらおうとか、

誰かに感心してもらおうとか、

誰かの声を期待して...

「書こう」

...という衝動が起こっていない。

 


「自分に向けて言うべきことを、確認しておいた方がよいだろうことを....”忘れないように”書いておかなければ...」

ってなところがスイッチになっている。

 


しかし、一体何のために?

と、もう少し考えてみたらば....

 


自分のブログは、これから先に起るであろうと予想できる悪い事態への心の準備のようなものかと思った。

他の人はどうかは知らないが、自分は悪い事態には「なって欲しくない」ので、どこかで「悪い事態が来ない」ことを期待している。

相当に”来る確率”が高まっていても.....「ひょっとしたら運よく来ないんじゃないか?」と望んでいる...ということは...

ある意味そんな事態に対処できる方法を考えることから逃げている。ということだ。

 


そもそも”悪い事態”なんてのは、予想して相当に準備していたとしても動揺し、右往左往するもんだ。

なら、せめて「心の準備」というか「覚悟」ぐらいは整えておいたほうが被害が少ないんじゃないかと....

 


いや、仮に良い事態であっても、人間なんて、簡単に自惚れたり、有頂天になったりして、ロクなことにはなってゆかない。

ならば覚悟の出来ていなかった”悪い事態”なんてのに襲来されるなら、そりゃあ相当に取り乱したりしてしまうのではないだろうか....

 


そんな事態でも平然としていたい。

までは言わないが、出来る限りは動揺を抑えたいとして....

「心の準備」ぐらいはしておこうか....

のための「思いついたこと」が多分自分のブログのネタのようだ。

 


と、実は、ここまで書いている間に、今日見つけたそのネタっていうのは忘れてしまったんだが...

 


ま、そんなもんだ(笑)

 


予想出来ていた事態が起こっただけのことなのに....

それが良いことならば恥ずかしいほどに有頂天になり、

それが悪いことならば、みっともないぐらいに取り乱す。

そのふがいなさ、

その心得のなさ、

その幼稚さ、

に懲りてきたんだろう。

 


だから、とりあえずの方法として、「自分への戒め」が見つかったとき

それをネタとして、ブログにそれを書きとめているということなんだろう。

 


そりゃあ他人様が見ても面白いもんじゃないよな(笑)

でも、公共の場所をお借りして申し訳ないんだが...

自分にはこれでも役立っているように思っている。

稼げないんなら使っちゃいけない

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ま、そういうことだ。

”戒め”の期間到来というわけ。

 


全くケチじゃない。

なので、欲しいモノは買う。

さほどの高級趣味ではないので、それでも困らない。

が、節約志向も薄いので、余分なモノまで買ってしまってはいると思う。

 


ずっとそんなんだったから...5年ほど前からかな?

ちょいと大袈裟だが....あたかも終活のような整理整頓も始めたりもしている。

 


そこで感じるのは...

ほとんど使わなかったのに、必要がなくなっているモノの多いこと....

そんな程度の必要性だったのに...「どうして買ってしまった」のかと....

「捨てる」ことは難しくはないが、そんなモノにどうしてお金を使えたのかと...

 


だから...

こういった失態の時は、自戒を含めて買物自粛をすることにしている。

 


そこで感じるのはいつも....

「別に何も買わなくても結構困らない」だ。

むしろ....「買えない」のだから「在るモノから使うしかない」はずで、それなら困るのか?と思いきや「使っていないモノの多さ」に驚いたりして....

 


...ということは、すでに....「余分なモノばかり買い過ぎている」ということだ。

さ、今日から自粛期間に入ります。

コツは...

「欲しいモノを我慢しよう」...ではなく、

「買う前に、在るモノから使っていこう」だ。


さあ2カ月、金溜めるぞ!