小学校の時に...
「なりたいもの」
「目標」
やらを聞かれても....正直に言うなら...「何も思い浮かんではいなかった」...のはこういう性質だからだったのか?...と、最近は思う。
だから...その上に....
”大志”なんてものを強要されるなら....「気持ち悪く」さえなっていたんだろう....。
”育ち”が悪いので、人様の言うことに素直に耳を傾けられないと思っていたが....
もっと育ちは悪くって....
大人の言う”正論”の確率の低さを、家庭内から嗅ぎ取っていたんだろう。
自分だけでも生き延びるために。
もちろん憧れや理想ぐらいはあるに決まっている。
今でも決められないほどに持っている。
が、徳川家康の言うように、一挙にソコに到達するわけがないだろうと。
いくつもの障害が登場するのだから、まずは目の前の敵?(難所)を一つずつクリアーしてゆくしか、道は無いだろうと。
ならば、ある意味、”大志”なんて集中を妨げる毒にもなるんじゃないかと....
でも....
それは「目の前のことを優先する」と言えば聞こえはいいが....
「目の前の些少なことに固執する」という姿でもあって....
格好良い姿ではないようだ。
だから自分でも隠し、偽ってきたようなんだけど....
”大きな事を言うのが好きな”反面教師達のあがきを見るにつけ....
本当に恰好悪いのは「どっちだ?」
ということに、自分なりの決着をつけたんだと思う。
恰好いい言葉も要らない。
恰好いい思想も要らない。
余分なことなんて考えて結果なんて出せるほど甘くはない。
恰好いい結果だけでいい。
多分....
それが今のところの目標になっている。
全然具体的ではないように見えるかもしれないが
自分じゃあ辿り着けないほどの壮大な大志の方がうんと具体性が無いように思えている。
妙な話小学校の頃の自分の勘は案外外れていなかったかな?(笑)と。
目の前の具体的な問題に、細かなことでも、一つずつ、一つずつ結果を出して行く。
大志の想像出来ない頭だから、
地道に人生生きて行く。
それで、十分だ。