というわけで...
いろいろ考えるのも面倒臭くなってきたので...
「生涯働く」ことにした(笑)
「いつまで続けるの?」
「いつ辞めるの?」
テレビの見過ぎだ。
そもそもスポーツ選手でもなければ、有名人ですらない(笑)
こんな自分如きが...「続けようが」「辞めようが」誰にもわからないことだし、ほぼほぼ関係のないこと。
いわば...「自分だけの」(残念なことに家族ですら無関心な気がする...)問題なのだ。
なら...「どっちでもいい」ってことだろう。
そう。
ピッチャーで言うなら...「投げられなくなった時」...でいいんじゃないだろうか?
そもそもに...もう若い頃のように剛速球も投げられない。
いや、もともとに...若い頃でさえ「剛速球」ではなかっただろう。
それがさらに衰えて...
「ヘナちょこ変化球」やら「妙なフォーム」やらで、誤魔化し誤魔化し続けているのだから...
ただ...それでも...「お金を貰えている」ってことは...「お役に立てている」
ということで...「そこ」がものすごく「重要だ」と捉えているし、「有難いことだ」と感じている。
ひっくり返して考えてみるならば....
「必要とされている」
と思っていいのだ。
父や、祖父のルーツを辿る経緯で...
この「お金を貰える」ということの価値を改めて見直した。
それこそ...「お金を払ってする遊び」は、誰もが褒められ、おだてられ、気分良くさせてもらえるのだ。
なんせ....「大事なお客様」なので。
そんなHなことばっかじゃない。
旅行も、買い物も、おみやげも、ジムも、古くはボーリングやパチンコやゴルフだって...
「お金を支払ってまで遊んでもらえる」ので...そりゃあ当然にもてはやされるんだけど...
そりゃその人の魅力や能力じゃなくって「払ってもらえる金」に相当の魅力があるからだ。
だから....「そこ」を勘違いしやすい。
父や祖父はその「気持ち良さ」の罠にに見事にハマった口なんだろう。
「金を払う」
ってことはその真逆。
そんなにも「相当に魅力ある金」を渡してまで「欲っされること」なのだから...
そりゃあ「責任」もあれば「やりがい」も遊びに比べて「大きくて」当然なのだ。
父や祖父は「遊びという麻薬」で、そこを感じられなくなってしまったようだ。
自分も15年ぐらい前までは彼らと似たようなもんだった。
時には大好きな遊びが仕事や収入を得ることに邪魔されそうになると...そんなにもある仕事に感謝するどころか、イラついたりもした。
が、何の因果化かいつしか...「遊び」よりもうんと充実し、
順番は「仕事」からということに自然となっていった。
その流れを...何も突然ストップすることもない。
大体「気が付いた」のが遅すぎたので...まだまだ道半ば。
ならば偉そうなことを言っていても普通の人より「足りてない」のだから...
ま、「嫌になるまで」「必要とされなくなるまで」
やってりゃいいじゃないか
と、
とりあえずは「あと2年ぐらい」は継続出来そうかな?
報酬?
それこそ、頂けるのは「期待されている額」なんだろうから...
頂けないのは「仕事とは言えない」ので困るんだけど...頂けるのであればこちらから査定するもんじゃないとも思っている。
そこは...民主主義、自由経済の世の中では...最大の評価点...なので。
少ないなら...それだけ自分の必要度は「低い」ってことだ。
言い訳も理屈っぽい解釈も何の必要ない。
より多く欲っするのであれば解決方法はただ一つ。
もっと「必要とされること」。
その努力は結構大変なんだけど。
さああと何年必要としてもらえるんだろう(笑)