「鬼畜米兵」
「敵国語の禁止」
.....正義が一夜にしてひっくり返ることを
現実と言う。と思っている。
福沢諭吉大先生は「勉強しなさいよ」という心構えを説かれたのだとは思うけど....
一夜でひっくり返るような”言葉”は剣よりも強くない。
「明・暗」「陰・陽」「光・闇」「上・下」....なんとなくの習慣と経験から....後者はどちらかといえば忌み嫌われる。
自分でも直観的にはそう反応してしまう。
が、自然界の掟のようなもので、必ず両方が存在するし、ある意味片方だけでは存在しえない。
あくまでも素人考えなんだけれども、最近話題の”ブラックホール”なんざまさに、宇宙に散らばる光の対極としてバランスをとっているんじゃないだろうか?....ぐらいに。
大袈裟に言うなら....
ブラックホールがなければ光も存在しえない。
つまり我々も存在しない。
ぐらいに。
STAR WARS じゃないが、光が増すほどに闇も増すのは自然なんだと思う。
「1億総中流」は願望であって一瞬実現したかのように見えても....宇宙の摂理から言っても....「それはない」....のが自然だ。
少なくとも...「1億総中流」で浮かれているぐらいなら....そんな状態は自然界では「いつまでも続くものじゃない」として警戒すべき状態だった。
自分は好きな状態ではないが....自然な状態は.....五千万上流五千万下流....だ。
ただ....心配ご無用。
中間地点のグレーソーンも自然にはちゃんとあって...「自称”上流”」も許容範囲なので。さほどに落胆することはない。
五木寛之先生が書かれた「下山の思想」の根底はそこなのかと。
先ほど流に表現するなら「登山・下山」で下山の無い登山はないと。
なので自分じゃネガティブなどではなく”極めて自然な考え”に近づいてきたと思っている。
言い方はややこしいが....
むしろネガティブだと思われる状況でさえポジティブに受け入れていると。
だから....
”居心地”が案外悪くないのだ。
地球には重力というものがあって、ある意味上に向かう者は「引きずりおろされる」のも”自然”。
下に向かうことには積極的なエネルギーを必要としないほど”自然”。
これを姿勢で表すなら.....上に向かおうとしているものの肩にはいつも力が入っていて、余裕も無く力みかえった赤ら顔でいつも興奮しっぱなし。
に対して....下に向かうこともよしとする者は肩の力も抜け静かな気持ちで案外周囲も見えて冷静だったりする。
ただ....「下に向かうことは」ちゃんと制御しないと恐ろしい加速をつけてもう二度と自分でコントロールできなくなるんだけど...
戦後の教育にも
「鬼畜米兵」
「敵国語の禁止」
のような意識高揚の言葉はあったんだろう。
何故かしら....
「前向きに」
「ポジティブに」
とやたらの場面で教えられてきた。いや唱えさせられたような.....
「後ろ向き」や「ネガティブ」は失格者の思考であるかのように....
それらと混在してしまっている。
現実を”正確に”判断することよりも
現実を”楽観的なものに捻じ曲げて受け止める努力”の方が
正しい国民の姿勢のように教えられてきてやしないか?
それは「気持ち」という実に曖昧な言葉で。
これからの日本は...「”気持ち”だけでも上昇していくと思っていないと上昇していきませんよ」
と言うならば
それって
「自然にしていたら落ちぶれていく」ってことでしょ?
”自然に頑張る”
程度じゃ許されませんか?
そりゃあ自殺者が異常に多い国にもなるわけだ。