小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

冷めた眼

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オリンピックが終わった。

ところどころ競技は見たけれど...

開会式も閉会式も見なかった。

 

極端に排除したつもりはないんだが...

まあ、もともと最近はテレビを見なくなっていたので、その延長のようなものか。

 

が...コロナにオリンピック、そして自分の年齢...なので...

何やら”人生の節目”でも感じたのか...

「見ていない割」にはいろいろ考えた。

 

たしかに「良い場面」もたくさんあったんだろうと想像する。

が、やっぱり...「好きなことを好きなだけやれている人」に...言われているような”勇気”は貰えない。

むしろこの炎天下で、嫌いな仕事なのに休めず頑張っている人に勇気は貰える。

それは決して「へそまがりな思考」ではないと思う。

 

「カラダを鍛える」「健康を向上させる」は当然に良いことだと思うし、いくつになってもたしなみたい。

また、「一生懸命になる」もとても尊いこと。

でも...本来は...別に他人に「見せなくてもいい」。

「見せてもらわなくてもいい」

 

たまたまにコロナという特別な状況にあっての開催だったからこそ...

多くの矛盾や理不尽に触れられた。

持ち上げられ、なおかつ「賞賛してくれよ」というアスリートと1年半ものたうち苦しんでいる飲食店の扱いが

同じ日本人同士

には思えなかった。

 

自分も長いことスポーツに関連して飯食ってきたので...

その特別扱いには

かなりの恥ずかしさも覚えた。

 

まあローマ人が言ってきたように...

パンとサーカス

なんだろう。

 

「見世物」によって人心の掌握や金の掌握をたくらむ者。

「見世物」になることによって名声や立身出世を画策する者。

なのに「純粋」を売り物にする。

 

表立って批判をするなら「非国民扱い」「非人間」...

 

今はまだ余韻で騒がしい。

が、あっという間だろう。

感動も、思い出も。

「勇気をもらえた」「励まされた」なんて講釈は...

次の感動や衝撃ですぐに忘却の彼方。

前回のオリンピックや前々回のオリンピックの場所さえ定かじゃない人の多いこと...

そいういうことだ。

 

まあ自分には「良い機会」になったと思う。

「決別」とまでの大袈裟なもんじゃないけど...

相当に冷めた目で見られる。

今後ずっと。

 

選手を応援しても何も自分の人生なんて変わらない。

いや下人の自分なんて誰も応援してくれるはずもない。

自分を幸せに導くことが出来るのは「自分だけ」なのだから...

「まずは自分のこと」なのだ。

 

それがあって...ようやく余力が出来て...

初めて他人に優しさ振舞える余裕が出来る。

 

オリンピック憲章は...

下人の分際には美し過ぎて、立派過ぎるのだろう。