あまりにも忙しくって...手術までしてしまった...
ということで...「前回」が、4月1日更新だったことなど...すっかり忘れた日常を過ごしていた。
特別なプランや目標があったり、険しい壁を登っていた...わけでもなく...
ただただ「やってくる事象」「起ってくる事象」に対処していただけのこと...なんだが...
それでも...「それだけで目一杯」になっていた...んだろう...
とは言うものの...新たな孫も生まれた。
父母の介護のステージも変わった。
もう一人の子供も結婚することになった。
となれば、”これまでの人生”にはなかった所用も増えていて...
別に仕事を減らしたわけでもないので...そりゃ”忙しい”にはなるはず。
そして...気が付いてみたらば...
そんな日常に...「疲れる」ことが多くなった、と。
あたかも「浦島太郎」のようだ。
気が付いたら...「おじいさん」になっていたのだ。
いやいや、そんな馬鹿なことはない。
少しずつ少しずつなってきたのだから、ある日急に、なはずはないだろうけど...
...どこかで「おじいさん」であることに「否定的」だったんだろう。
ずっと...心の中では...「おじいさんなんかじゃない」と言い張ってきたんだろう...
が、それでももう「おじいさん」であることを否定も出来ないし、隠すことも出来なくなってきた...んだろう(笑)
あの時の「ゴール」は何年前?3年?
「秋の日はつるべ落とし」
という言葉があるが、まさにソレ。
あっと言う間に「おじいさん化」した。
何年か前から「トレーニングがしんどくなってきた」とも書いていたんだが...
現在から振り返ってみたらば「そりゃ当たり前の話」だったのだ。
「おじいさん」が「カラダなんか鍛えようと」しているんだから...
「気が付くのが遅すぎた」ぐらいに...そのトレーニングへの取り組みを「方針転換させる必要性」...なんてところが顕著なのかもしれない。
50代でも...「若い頃のようには出来ない」とは感じ始めてはいたけれども...
そんなのまだ「マシな症状」だった。
せっかく長く続けてきたので、トレーニングの継続にもしがみついてきたんだけれども...
そもそも「鍛える」なんてこと自体相当にカラダを「痛めつける行為」にもなっていたお年頃なのだ。
「気力」や「精神論」なんかで乗り越えようとすることも、もはやカラダを疲労困憊させ、故障や不具合を増やし、かえって不健康なカラダ作りに邁進しているかの様なのだ。
笑い話にもならない。
「トレーニングを必要とする」という気構え自体が悪いわけじゃない。
ただ...その方法や程度はもう...「若い頃のもの」とは全然違ったものである...はずなのだ。
老眼がわかりやすい。
全てが「鍛えられる場所」ばかりじゃない。
同様のトレーニングを続けて計25年。
その内違和感を感じるようになって9年。
本当にしんどくなってきて3年。
故障や体調不良など続けることすら出来なくなって1年。
その原因にようやく気が付けたというか...思い知った...のだ。
根性や気力が萎えてきた... んじゃない。
カラダが「おじいさん」になってきたからなのだ。
続けられなくなっていたことも、「忙しさ」で誤魔化していたんだが...
現在じゃかえって「運動不足」で、これまたアチコチ痛いという始末。
違った意味で「カラダを動かす必要」も出てきているのかもしれない。
というわけでトレーニングを復活させる。
いやもう、「トレーニング」と呼べたシロモノではないかもしれない。
「鍛える」なんてことは「一旦除外」
「カラダの調子を整える」
が目標かな?
「おじいさん」であることを前提とした「無理のないもの」にしておかないと...
本当に壊れて行くのだから。
早速「かつてのジョギングコース」を「歩いてみた」。
「歩いただけ」なのに...アチコチ痛い。
「そういうこと」なんだろう。
トレーニングでさえこんなんなのだから...
いろいろなことを、いろいろな方面で「おじいさんモード」にしてかなきゃならないんだろうなぁ...
心地良く生活してゆくためには...
いわゆる「無理」で「鍛えられる」鋼のカラダにゃ「ほど遠い」というところ。