小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

趣味と自分(2)

f:id:okutavianus:20180805174329j:plain

 


”趣味”を持つことが悪いというわけじゃない。

趣味あったればこそ、前向きに生きていられるという人も居られよう。

が、人は人、自分は自分で、「今の自分」は果たして”趣味”あったれば幸せになれるのか?

ということなのだ。

 


では、前回の続きを考えてみよう。

今から考えれば”当たり前”のことなんだけど...

よほどにあぶく銭でもない限り、○○タウンの社長でもない限り、バブルもはじけたこのニホンで、趣味中心のようなアホな流儀が通用するはずはない。

父方の一家も、母方の一家も、日本が没落するとともに没落した。

当然にそれに影響受けてきた?自分も、自分の兄弟も、いとこ達も...周囲の友人達も皆没落した。

 


そんな中で、比較的手堅い収入のあった自分は珍しく生き残った方だ。

なので結果としては、趣味を手放さずに済んだ。

言い換えるなら....趣味を捨てきれなかった。

同じように趣味に生きる仲間も捨てきれなかった。

 


というか....人情が強かったからではなく、そういったルーティーンにどっぷりと浸かっていたので、生活習慣を簡単に変えられなかっただけ、と言うべきだろう。

そしてもう一つは....

仕事の腕前が無いだけに、唯一評価してもらえる長年続けてきた趣味御腕前を保持したかったのだろう。

そんなもの見ず知らずの他人からしたらば、どーでもいい、ことなのに。

 


社会人であるのに、

子供も居るのに、

毎週、毎週必ず遊びに出かけた。

その準備や後片付けをその他の平日にこなしてででも。

 


そのような趣味生活を中断させたのは情けないことに自分の意志ではなく家庭の事情だった。

13年ほど前か?

そこから7年ほどでその縛りは溶けたんだが...つまり....今から6年前より趣味の再開は可能になっていたんだが...

こんな自分でも....少し人生観が変わったんだろうか....趣味に没頭することを躊躇するようになった。

 


なので、そこから....は、思い出す程度にしかやっていない。

あれだけ行かなきゃ収まらなかった気持ちにも不思議とならない。

山ほど余ってしまった道具もあるので、「もう少し趣味をも」と自らにはっぱをかけたりすることもあったんだが....

やはり昔のような気持ちにはなれない。

 


では、一体何が楽しみなのか?と考えても、特別新たな楽しみが出来たというわけでもない。

毎日とにかく仕事をし、トレーニングをし、休日には庭の手入れをし、たまに仲間と飲みに出かける。

それだけだ。

 


矢沢永吉のサブウェイ特急の歌詞はこう。

♪~地下鉄には寂しい顔の奴らが座っている。

背中に暮らしを引きずりながら、寝ぐらに帰るただそれだけ~♪

 


社会に出る前の若い頃に強烈に影響を受けた歌手の歌詞だ。

ただもんじゃない。

働きアリ=寂しい、虚しい....を印象付けられた。

派手な趣味人に傾倒したのもこれと無縁じゃないだろう。

 


が、芸能人でもない自分が体験したのは、むしろアリとキリギリスだった。

当たり前のように働かないことには趣味どころか学費も出せないし、飯も食えない。

楽しい生活なんて夢のまた夢。

趣味は普通に”その次”でしかない。

年々差の開く現実....

結局、追い込まれるように.....自分も多少なりとも仕事をするようになった。

 


が、寂しく虚しいはずの仕事の場は、避けていたほどには....案外そうでもなかった。

仕事の関係で出会う人々は...全員がそうではないのだろうけど....みんな嫌々ながらも頑張っている...ように見えるようになった。

頑張りたくない?のに頑張らなきゃ....としているように見えるようになった....

そして当たり前だが、矢沢永吉にとっても、あの歌は...”趣味”じゃなく仕事の作品だということ。

 


かつて趣味に興じて鼻高々だった身内の顔を思い浮かべても....

悪いが....あまり素敵な顔じゃない。

自画自賛に酔いしれて歪んでいるというか....

少なくとも憧れたり、真似をしたい顔じゃない。

さほどに格好良いものではないのだ。

それが....昔はわからなかったんだろう。

そして....今は....多少はわかるようになったんだろう。

 


今週末は、このような心境がまともに現れてしまったような週末で、散々な目に遭い、只今治療中。

一つの....踏ん切りになっていくような予感がする。