速球勝負が出来ていた頃は....
軟投派になることに拒絶感を持っていた。
いい意味じゃあ、意地があるというか、ポリシーがあるとも言えるんだろうけど....
違った見方をするならば.....
速球で勝負出来ないような奴は.....「ピッチャーじゃねえ」....のように「見下していた」...という裏返しでもあったんだろうと....
速球が投げられなくなった自分を「惨めに感じる」のがその証拠だ。
仮に....必死に、真面目に、一生懸命に、
コーナーの隅を抜群のコントロールで狙って投げていても....
110kmしか出せないピッチャーを
「それも凄いことだよ」とかなんとか表面じゃ言っていても...心のどこかじゃ....(貧弱な...)
と軽蔑して見ていたってことだ。
さらに言うなら....そんな姿勢だから....
きっと自分の人生で、”ボール拾い””ライン引き”なんて....
「有り得ねー」
って思ってたんだろう。
野球が特別好きなわけではないんだが....
野球好きの人にとっちゃ様々な野球との関わり方やつながり方があって、それは順位や格をつける類のものではないはずなんだが....
明らかに自分はつけていた。
ということは....野球ではなくても様々なものに勝手な順位や格をつけ....
良い意味では”高い目標”を掲げる向上心にもなったのかもしれないが....
悪い意味じゃあ差別・区別の線引きとして....
なりたくないもの
あるべきじゃない姿として
軽蔑していたってことなんだろう。
さてさて速球の投げられなくなった自分は
これからその処罰を受けることになる気がする。
お前が見下していた人生をこれからお前が味わってみろよ、と。
神様にはそういう一面もあると思っている。