群れる=「みんなと一緒が安心」の典型的な表現型...とするなら...
暴力反対=「ゆえに言葉こそが大切」...
の”いずれ”も自分にとっては信頼性を持たない。
「群れる」については先回「ハーメルンの笛吹男」で説明したが...
「言葉」だってそんなにも...有益・無害とは思えない。
むしろ「使う人間」によっては、
優しく、美しい”仮面”を被っているだけに...
暴力よりも...うんと「無益・有害」だと思っている。
ブログのみならずネットにも溢れている。
一見、優しそうで、美しそうで、正義に溢れていそうな...
「人を見下した言葉」や
「侮蔑した断定」やら
「乗り越えられない軽蔑」やらが...
放出している”本人”は気が付いていない場合が多いようだ。
「正義の論者」として振る舞っているつもりなので。
が、「正義そのもの」が、「それに従わないもの」への侮蔑であることに気が付いていない。
お笑いを見ていても、相当に「言葉の使い方」は進化している。
放送にもBPOとかがあって、かなりうるさく注意されてもいる。
が、違うんだ。
「悪いもの」ぐらい誰しも簡単にわかるのだ。
そうじゃない。
「正義のフリした正論論者の悪」
は....ものすごく気持ち悪く賛成させられてしまうものなのだ。
そう...まさに...「自然に群れてしまう」ように...
山際なんとかという大臣が辞任をされたが...
彼の正直な醜態を知れば大臣どころか議員に選ばれるはずもない。
それなのに選ばれてきたのは「金(かね)」か?
金だけじゃないだろう。
最も大切とされる...
「言葉の力」
があったからじゃないのか?
そんなものを信用したがために...あんな人間が大臣になれてしまうということ...
を...自分は「仕方がない」とは思いたくない。
民主党の元総理が立派な弔辞を読んで賞賛されている。
そんなことそんなにも立派なことなのか?
彼がすべきだったのは...
彼に投票してくれた有権者のために
自民党に頑として政権を渡すことなく、「もっと素晴らしい政治をする」ことではなかったのか?
そこから逃げ出した彼は...
素晴らしい
どころか、恐ろしいほどの卑怯者だというのに...
「言葉が大切」な麗しき民主主義日本では
とても立派な政治家
と評されるらしい。
もう本当にアホらしい。