小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

死に様

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「人生観」「死生観」も個々人の差異が大きなものなので、私が決めつけられるものではないのだろうけど...

人間が考える葦であろうとも、感情を持った生き物であろうとも、

有限な生命体であることは”自然の摂理”として曲げられないことなので、

活動の最後が「死」であることは否定できない。

急いで速く行動することまでは出来たとしても....

一日の時間を24時間からは伸ばすことが出来ないように「人間はいつかは死ぬ」という運命は変えられない。

 


であるなら....

「あえて死を考えるよりも生きることを....」なんて言う人はいつでも、どこにでも居るもんだが....

「下り坂」を考えた時にはどうしても最後の到達点の「死」は無視できない。

「上り坂」のゴールが「頂点」であるのなら....

「下り坂」のゴールは「死」だ。

 


一見残念なように聞こえるかもしれないが、ここにファンタジーは要らない。

それこそ道を誤る。

自然の掟には逆らえないだけのこと。

ゆえに.....

「下り坂」は案外長く....、むしろ「上り坂」よりも個人差も大きくなるのかもしれない。

 


つまり....妙な話なんだが....

下り坂の生き様を考えるということは.....

死に様への道筋を考えることにもなっているわけで...

なんとも皮肉なものだ。

が、それこそがまさにこの世が死生表裏一体で出来ているということなんだろう。

 


最終ゴールは”死”ということは推察できる。

すればその”死”以降は自分じゃどうすることも出来ないので考える必要もない(笑)

考えたことが反映されるのは当たり前だが

「死ぬまでの期間」だ。

つまり「下り坂の人生を考える」ってことは「死に様を考える」ということでもあるのだろうと....

 


まだ死ぬまでには時間のある(と期待している)ので、のんびり考えたいんだが....

今回はいろいろちらついたのでそんなこともしばしば思った。

 


人間死ぬ時には最後誰だって独りだ。

相談も出来ないだろう。

相談したって意味もない。

この3年間はその練習をさせてもらったようにも思っている。

 


全然楽しくはないんだが....かといって落ち込むほどに暗い作業でもない。

妙に落ち着いたというか....静かな心境になる。

 


多分死ぬまでに何度も何度もこの練習の機会は訪れるんだろう。

穏やかな最後を迎えられるように....神なのか?仏なのか?鬼なのか?何度もそう仕向けてくるような気がする。

 


死を迎えた時に.....

騒ぎたて、わめきたて、周りの者に迷惑かけることなどないように....

そうなっても冷静で淡々としていられるように

みっともない死に様をさらすことのないように....

その練習も始まっているのかと。

 

 

きっと古来の高僧らは

この様を”修行”と呼んだのかもしれない。

 


自分を高僧に見立てるのはおこがましいが....

高僧以下の自分なら....

修行が必要な身であることには違いない。