実際には”ふりだし”には戻れないし、戻ってやり直すことも出来ない。
だから...「せめてもの」....努力なのだ。
いいや、努力というほどの前向きなもんじゃないかもしれない。
むしろ”懺悔”に近いかもしれない。
でも....「やりっぱなし」...よりはまだマシか...というところ...
死ぬまでに...あえて後悔を増やすこともない。
気が付けた以上...
これからやってくる出来事の対処は...これまでの”二の舞”を踏まないようにしている。
「ちゃんと」という言葉をたまに使うのだけれども....
自分じゃ...「真面目に」「しっかりと」「丁寧に」...
の総称のように使っている...つもり。
”これ”が自分と父親には欠けている。
そういうのを...「育ちの悪さ」と言うんじゃないかと思っている。
”人の事”は細かなところまで難癖つけて批評するくせに...”自分の事”に寛容であるのは...
自分達が思ってきたほどに”大らかだから”なんかじゃない。
簡単に言って...「自分だけに甘い」ということ。
要領が良いから”早く出来た”んじゃない。
”ちゃんと”考えることを「省略した」から早かっただけ。
「丁寧に取り組まなかった」から早かっただけ、。
「熱心には考えていなかった」から早かっただけ。
いろいろ省略されてきたから「早かった」というだけのことなのだ。
思考も作業も努力も「手抜き」されてきた。
たしかにそれでスピーディに済ませたからの展開もあっただろう。
けど...それじゃダメな場面もあるのだ。
”そこ”を省略して生きてきた。
”肝心なところ”を省略して生きてきた。
そんな父子なのだ。
どうしてか?
今はわかる...ような気がする。
苦しむのが嫌だからだ。
苦しみに立ち向かうのが嫌というのが正解かもしれない。
サッサと済ませて....
苦しみの無い...いつも楽しいお気楽な状態でありたいのだ....
苦しみと共存出来るだけの精神力が無いので。
まあ...いい歳こいているので...「泣き」はしないけど...
「逃げた」というところなんだろう...
だから...身についてない。
そういう場面を通過する免罪符の”苦労”を知らない。
そういう場面で必要な”ふるまい”を知らない。
だから...「振り出しに戻った」つもりになって...体験するしかないのだ。
何のために?
何のためにというほどの大げさなものはない。
ただ....
「ちゃんと」やっみたならどうなんだろう?
という結果を知りたいのかな?
こすっからく、誤魔化して、手早く済ませたこととは、
「どんな違い」が出てくるものなのか?
見てみたいというのが一番強いのかな?
散発的にだけど....いくつかは試験済だ。
正直....
”かなり”違う....
だから...より、大切なことなんじゃないかと...思わされている。