小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

ちゃんと

 

 

実際には”ふりだし”には戻れないし、戻ってやり直すことも出来ない。

 

だから...「せめてもの」....努力なのだ。

いいや、努力というほどの前向きなもんじゃないかもしれない。

むしろ”懺悔”に近いかもしれない。

でも....「やりっぱなし」...よりはまだマシか...というところ...

 

死ぬまでに...あえて後悔を増やすこともない。

気が付けた以上...

これからやってくる出来事の対処は...これまでの”二の舞”を踏まないようにしている。

 

「ちゃんと」という言葉をたまに使うのだけれども....

自分じゃ...「真面目に」「しっかりと」「丁寧に」...

の総称のように使っている...つもり。

 

”これ”が自分と父親には欠けている。

そういうのを...「育ちの悪さ」と言うんじゃないかと思っている。

 

”人の事”は細かなところまで難癖つけて批評するくせに...”自分の事”に寛容であるのは...

自分達が思ってきたほどに”大らかだから”なんかじゃない。

簡単に言って...「自分だけに甘い」ということ。

 

要領が良いから”早く出来た”んじゃない。

”ちゃんと”考えることを「省略した」から早かっただけ。

「丁寧に取り組まなかった」から早かっただけ、。

「熱心には考えていなかった」から早かっただけ。

いろいろ省略されてきたから「早かった」というだけのことなのだ。

 

思考も作業も努力も「手抜き」されてきた。

たしかにそれでスピーディに済ませたからの展開もあっただろう。

けど...それじゃダメな場面もあるのだ。

 

”そこ”を省略して生きてきた。

”肝心なところ”を省略して生きてきた。

そんな父子なのだ。

どうしてか?

今はわかる...ような気がする。

苦しむのが嫌だからだ。

苦しみに立ち向かうのが嫌というのが正解かもしれない。

サッサと済ませて....

苦しみの無い...いつも楽しいお気楽な状態でありたいのだ....

苦しみと共存出来るだけの精神力が無いので。

 

まあ...いい歳こいているので...「泣き」はしないけど...

「逃げた」というところなんだろう...

 

だから...身についてない。

そういう場面を通過する免罪符の”苦労”を知らない。

そういう場面で必要な”ふるまい”を知らない。

 

だから...「振り出しに戻った」つもりになって...体験するしかないのだ。

 

何のために?

 

何のためにというほどの大げさなものはない。

ただ....

「ちゃんと」やっみたならどうなんだろう?

という結果を知りたいのかな?

 

こすっからく、誤魔化して、手早く済ませたこととは、

「どんな違い」が出てくるものなのか?

見てみたいというのが一番強いのかな?

 

散発的にだけど....いくつかは試験済だ。

 

正直....

”かなり”違う....

 

だから...より、大切なことなんじゃないかと...思わされている。