「大志」や「野望」や「目標」は”努力”に近づきやすいのだろう。
「大志や野望や目標が無かった」自分は...ゆえに「努力」にも遠かったようだ(残念!)
「週のルーティーン」の一つ一つは全く大したものじゃない。
せいぜい「注意点」...ぐらいなもので、普通は「努力」とはみなされない...程度のもの。
でも...「努力を習慣としない」前提で生きてきた自分にとっては「貴重な時間」「貴重な方針」「貴重な習慣」なのだ。
程度は低いものの...
ゼロか1かの...いや、×か〇かの違いぐらいはある。
無は永遠のゼロだけれども有は1ではなく、ひょっとしたらば...100かも...1000かもしれないのだから...
努力はしない割には...
「やる」「やらない」だったら...「やる」を選ぶ方。
それも同じ考え。
無は永遠にゼロ。有はいくつになって跳ね返ってくるのかわからないから。
もちろん...「悪事」になって跳ね返ってくることもある。
そらま、しょうがない(笑)
ルーティーンの数々は自らの前向きな意志で増やしてきた...
ようには思えない。
21年前に「走り出して」から...
何故だか「足りないもの」「欠けているもの」「間違っていること」が剥がれ落ちるように露になって...(今をも続いている現象)
それらを修復するかのように...
ルーティーンは増えてきているというわけ。
ある意味サグラダ・ファミリアだ。
「いつ完成するのか?」わからない努力の集積だ。
ん?
ジグソーパズルに例えた方が早いか?
21年前までは...
本当は正しくないピースでも、無理やりハメこんで「一人前に見える」ように繕ってきた...んだろう。
手っ取り早い「見栄え」重視ってところか?
安易な自分らしい...
だけど...
そんなピースばかりが増えてしまったあまりにもインチキなジグソーには...もう次のピースがはまらなくなってしまった...
んだと思う。
人生に...「手っ取り早い方法」はないようで...
そこから進むには...
間違ったピースを剥がして...
「もう一度正しいピースを探して」
ハメ直すしか...ないと判断したんだろう...
もっと「お利巧な」手段はあるのかもしれないけれども...
案外自分はこのルーティーンに不服はない。
大したものじゃないけれども...
修行僧が洞窟を掘り続けたり...
滝に打たれ続けたり...
断食を続けて...ミイラになったり...したことは...
「苦しいだけ」の思いで続いたようには思えない。
「昇華」というには大袈裟なんだろうけど...
少し...心地良かったりも...するわけだ。
垢が剥がれ落ちるというか...
醜い部分を少しだけ削りとれるというか...
清々しいってのかな?
だから...
完成形なんてなくてもいいのだ。
作業自体に意味があり効果があるような気がしているので。
そもそも...もう間に合わないのだ。
死ぬまでにの完成には。
気が付いたのが遅すぎるので(笑)