小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

神の思し召しⅡ

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今にして思うなら...

10年ほど前までは”神の思し召し”を無視するかのように生きていた。

いや...

「あえて”逆らう”ように」と言った場合もあるほどに...

 

自信があった...からではなく...

自信がある人間で「ありたかった」というところなんだろう。

 

なので...今振り返るなら...努力の割に結果が出せていなかった。

大袈裟に言うなら七転八倒し、のたうちまわるような努力をしているのに...

その量にふさわしい結果を見ることがなかった。

 

神の思し召しに従うということは...

「自分で決められない人間である」と決めつけて、そんな人間が成功を手に入れられるわけがないと思っていた。

 

が、それは見方を変えるなら...

自信ではなく、自分の判断力へのある種の過信でもあると思いはじめ...

残り少ない人生は、少し神にゆだねても良いのではないかとなったようだ。

 

かなりささいなことまで、なんでもかんでも自分で決めてきた。

それは一見決断力のある行動のようにも思えるのだが...

全てのことを「自分が決めたがる」ということでもあり、ある種の傲慢なことでもある。

 

だから

うまく行くはずもない行動なのかもしれない。

 

神が何処にいるのか?

神が誰なのかはいまだ知ることもない。

 

が、”神の思し召し”に素直に従うということは...

その何処なのか誰なのかさえわからないようなモノの指針を「信用する」ということであり、一見は「いい加減」な決断なようだけれども...

これも見方を変えるなら...

何処の誰かもわからないような指針にも「それもあるかもね」と素直に迎合出来るという「心の広さ」でもあるのかもしれない。

 

だからか...

10年前ぐらいから

自分よりも「何処の誰だかわからない神」の導く方に進むようになって

結果の出ることが多くなっている

 

気がする。