小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

バチが当たる

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...を気にするようになった...のはいつ頃からだろうか?

 

若い頃は全く気にしていなかった。

どころか...

「バチに当たったところで何?ソレ?」

ぐらいにバチに対して”挑戦的”ですらあった。

 

だから...

バチが当たってばっかだった。

猛烈にバチに見舞われる毎日だった...ように思う。

 

最近東大生が流行りで、いろいろと披露されているんだが...

やはり...優秀な人というのは...

「努力が集積して方向」に生きてらっしゃるというか...

だから無駄がなく効率的というか...

「それを利口と言うのだよ」

とよく思わされる。

 

育って行かれる環境も素晴らしいのだろうけど...

本人が気が付くのも早いんだろう。

 

そこへ行くと馬鹿は違う。

あえてすることもないバチ当たりな行動に出ることを....

何かへのチャレンジと勘違いしている(自分だけか?)

 

他に堂々とチャレンジすべきことが山ほどあるにもかかわらず...

マイナーというか...抜け道のようなジャンルに貴重さを見つけ、極めて少人数な分母の中で優秀さを叫ぼうとするのは一体何のため?

 

父親の...

そういうところが...

反吐が出るぐらい嫌いだったんだが...

見事なほどにその習性を受け継いでいた。(いる?)

 

「上手ですねー。」

「すごいですねー。」

「賢いですねー。」

と褒めてもらいたいのか?

いい歳こいて。

もう幼少期でもないのに...

 

馬鹿ゆえの見識や行動に、反省が必要なところをまさに...

「馬鹿丸出し」

にしてしまうわけだ。

 

これは”迂回”ではなく...

”道”をはずしてしまっている。

だから救われない。

成功しない。

 

あえてバチ当たりの行動に出てしまうことは...

根底がこれとほぼ同一のところにあると思う。

そこに行き着いてしまうのは...

まさに「もののあはれなり」を具現化する人格。

 

自分が若い頃「努力」と感じていたことは...東大生の集積性努力とは真逆の「やみくもなバチからの脱出」対応であり、それを繰り返す日常だったということ。

芥川龍之介見るならば...

何度も蜘蛛の糸をよじ登り、何度も切れて落ちて行く...

理由がどうしてかも考えず、それを繰り返しているだけのこと。

あはれな様だ。

 

...てなことと思うようになってからなんだろう。

バチが当たる言動を回避するようになったのは。

 

今は...予感として...

そう思う時は...素直に「バチの当たらない方」を選択する。

そんな時に未熟な自分の判断で小賢しい工夫は要らない。

というか裏目に出るのがオチ。

 

神様は居ないと思っている。

だから...心頭している「神の思し召し」も含めて”正しい”表現ではない。

 

が、自分を取り囲むエネルギーと自分から発するエネルギーということを考えた時には....

自分からのエネルギーなんて「たかがしれている」と考えるのが当たり前の自然の摂理というものだ。

 

それをイチイチの理屈で自分に説得するのが面倒臭いので...

馬鹿な自分には...

「神が」「神の」「バチが」「バチの」

がわかりやすくていいんじゃないの?と採用させていただいている...わけ(笑)。

 

またまた長い。

今日もこの辺で。