「ハーメルンの笛吹き男」の話をあまりにも幼少期に知り過ぎたのか....
「皆と一緒」
に違和感を感じることは小さな頃から自然なぐらいに多かった...と思う。
教師らからもよく
「行列からはみ出すヤツ」と注意を受けた。
が、本人は正しく弁解すればそうではなく
(行列自体が正しい方向に向かっているようには思えない不安を感じる)
というところだったのだ。
あえて「人と違ったことがしたい」のじゃない。
「”多くの人”がそうだから...は必ずしも正しいの?」
だったり
「たった一人が正解で、多くの人が間違っていた」は絶対ないの?
と思えてしまうのだ。
どうしてだか?
ハーメルンだからか?
今じゃ当たり前の地動説でさえ「それは異端で処刑する」
なんて「多くの人に」賛同されていた事実は何?
それが自分の「多くの人」の評価なのだ。
いや、人間は気持ち悪いぐらい
「多く」
に惹かれ、
「多く」
に理性を失ってしまう”弱点”を持っているように思えるのだ。
そんな理屈のわからないけっこうな昔から。
「自分は一緒に消えてしまいたくない」直感として。
「多くの人」=「みんな」=「仲良く」=「馴染む」
にもつながる。
遠ざけられたり、特別扱いされることもままあったし...
自分のこの感覚に自信を持っていたわけでもないので...
「直さなきゃいけないかな?」と思ったことなんて何度もある。
が、そんな時に限って...
”みんな”の行列がドボドボと落ちてゆく様を見てしまったりする。
すれば...
(よかった馴染まなくって...)ぐらいには戻される。
仕事柄初対面の人ともすぐさまフレンドリーになる。
飲み屋じゃ隣の席の人ともすぐに打ち解けられる。
ように見られているんだが...
それは仕事上のパフォーマンス。
金になるなら何でもする。
でも...
金にならない自分の素の感覚は...
集団の意見は...「気にならない」どころか...能動的に否定的に見ようとする...ぐらい。
そして...この歳にまで到達してみるなら...
「やっぱりグリム兄弟は凄いな」
と思えている。
案外残っているのは”なかよし集団”ではなく
集団に馴染まなかった(めなかった?)ヤツだったりするから。
仲良く、笑いながら、楽しそうに...抹殺されてゆく...
どっかの国民みたいだ...
普通は馴染まないよりも馴染むことが肯定される。
が、(馴染まない方がいいんじゃないの?)の予感が「当たってたんじゃないのか?」
と思えるのが...自分の場合は
「ゴルフ」
と
「高校時代」
かしら...とか?
高校時代にゴルフをやっていたわけじゃあないんで、全く関係ないことのようなんだけど...
馴染めかなったこと
こそ「神の思し召しかもね」
と思える感覚が
異様なほどに似ているのと...
「だから不幸にならなかった」
ぐらいの肯定感があるのだ。
自分の中では。