下重暁子さんの「極上の孤独」を読んだ。
”孤独”は私にとって例外ではなく....というか私こそ”孤独”という自覚を持っているので、興味が沸いたからだ。
私の筆力の分際で言うべきではないだろうけど...正直特別な感銘は無かった。
が、敬虔な宗教の修行においては、あえて”孤独”になろうとする....というくだりがあって....
それはナルホドと思わせた。
私は修行僧でもないし、敬虔な教徒でもないんだが...ゆえにさらなる凡人だ。
削ぎ落さねばならない煩悩の数とて膨大なはず....
と言う事は...本来は私のようなものにこそ、”修行”も必要というものなのだろう。
が煩悩の塊である私は、未熟者にもかかわらず家族を作り、身勝手に世に出て責任を増している。
残念なことにそれらの責任すら果たせているとは言えないような状況で、修行に要する時間はなかなか見つからない。
滝に打たれた方が仕事よりも楽じゃないかと思う時もあるぐらいなのだが、滝に打たれていても収入が入るわけじゃない。
そんな日々の中で明らかに”孤独”となるのは庭の手入れの時だ。
炎天下の草取り、長期休暇に遊びに行けない剪定....毎週のようにノルマがある。
毎週のように孤独な時間になる。
ある意味....慣れても来ているので....その最中に考え事をすることは多い。
ある意味....無意識のうちにも自分と向き合う時間になっているかもしれない。
と考えるなら、草取りや剪定は自分のしたいことを邪魔するような無駄な時間なんかじゃなく、嫌な時間であっても自分に必要な時間だったのか?と....
冬なんか、モズと二人?っきりなんてこともあるんだが....
そんな時のモズは逃げない。
修行というにはおこがましいが、多少なりとも煩悩やら欲が剥がれているのかもしれない...
修行に成果をを期待するのもバチあたりな話だが....単純に庭がきれいになる、という現世界での目に見える貢献もある。
嫌な思いだけをさせられる修行にあっては、儲けものではないのか....(もう既にこの考えがバチ当たり)
「極上の孤独」を読み終えた今週は、あれほどにも”時間の無駄”になっていると嫌々に感じていた草取りが、何故だかいつもより丁寧にも出来た気がしたりして...
考えてみるならば....
私とて、なかなか”孤独”の方を選択することはない。
庭仕事だって、本当は家族に手伝ってもらえるなら、そんな楽しく有難いこともない。
が、誰も手伝わない。
感謝の言葉もない。
だから余計に面白くない作業....と思っていたのだが....
「孤独に自分と向き合う時間」と考えるなら....
否が応にも毎週伸びてきて必要を迫られる庭仕事は....格好の修行の時間なのかもしれない。
下重暁子さんによると....
孤独を大切にする人は人相が違うという。
多少はいい男になっているんだろうか?