学校も嫌い。教師も嫌い。
だったので...「学校教育の影響」なんて少ない方だと思っていた。
が、そうでもなかったのだ。
そりゃそうだろう、国家(アメリカ?)が、”二度と逆らわない従順な子羊を育成する教育”なので...そんなにもヤワなはずもないのだ。
「自分なり」の判断や価値観よりも「皆がわかる」「皆に通じやすい」”目安”がいつしか「自分の基準」にもなっていた。かな?
「テストの点数」なんて「決められた範囲」そして「覚えた(ているはず)の範囲」で「どれだけ忘れていないか?」という確認でしかないのに...
それが良いと...「頭が良い人」「優秀な人」と自分でも判断していたようだ。
極めつけが「出身校」。
流行りの「東大ナンチャラ」という番組は好きではないが...短絡的にも「頭が良い人」とは認定してしまう...
が、失礼なんだけど...中3の時の英語の担任は、いつも「教材の外人のしゃべっているテープ」で授業をしていた。
「自分じゃ正しい発音でしゃべれないから」からだと思う。
そんなんで...良いはず...がない。
が、それを言い出してしまうと...「じゃ、体育の教師は普通にバク転ぐらい出来なきゃ駄目」ってことにもなるのかしら...
でも、きっと彼らが「採用試験」なる「テストだけは出来た」...のは推測できる。
なんだか本末転倒、なおかつ抒情的な差配だ。
でも、それが、この日本の仕組み。
そんなことを「ずっと」経験して来れば...
「屁理屈こく前に点数取れよ」
という話にもなろう。
大袈裟に言えば...そうなると...実際の「出来る・出来ない」よりも...テストの答えが「わかる・わからない」が「出来ることの証明」の扱いのようにもなってしまい...
自分自身も「錯覚」に陥ったまま...卒業後の人生も過ごしていたように思う。
そんな時かな?中学校の同窓会で中卒なのに何十人も雇用する社長になった同級生に出会った。
学歴がないので、非常に「遠回り」したようで...そんなに出世していることを誰も知らなかったようだ。
そう、ラベルを持たない「彼の実力」は認知されにくかった...のだろう。
しかしながら「器用貧乏」が次々と落伍してゆく様の年齢になって...
「ゆっくり身に付けた本当の実力」
を持つ彼は...ゆっくりと、しかし確実に、のし上がってきたのだろう。
中学時代の彼の成績も知っているけど...決して良くはない(笑)...のに。失礼。
ただ...勉強よりも「やってしまう子」だった。
当然教師から「駄目だ」と言われていることも「やってしまう子」だったんだけれども...
「やってみて」...「出来るんだ」「出来ないんだ」を確認しなけりゃ...「わかるわけないだろう」ぐらいの自信を持っているようには...見えた。
なので...時間はかかったんだろうけど...
彼は自分が「何を出来て」「何が出来ない」のかを身を持って知っているので、「無駄には欲張らない」のだ。
今の自分があるのは明らかにコンピューターのおかげ。
自分の年代の割には、早くからパソコンをいじり、メールやネットを利用し、様々な分野をコンピューターで管理しているから...
無駄に人に依存しなくて済んでいるところが実に大きい。
単純に言ってしまうなら...人件費が要らない...のだ。
が、これも単純に言ってしまうと...
「何もかもが自分で出来ると錯覚」もしているのだろう。
そう、振り返ってみれば...あたかも「ギックリ腰になるのに向かっているような生活」だったことにも気が付かないぐらいに...
「自分の考え」に自信を持っていたということだ。
東大卒は...さすがに自信を持ってもいいのだろうけど...
そこいらの大卒程度なんて...ゴロゴロ居る時代に...
「自分の考え」に自信を持つってのもねぇ...
そりゃ普通に「過信」って言うんだろうね(笑)