何処に向かったらいいのか?
が、わからなければ、当然
何をすればいいのか?
もわからない。
そんなところから「走ること」に加えて癖付けを試みたのは....
「空いている時間を失くす」
ということだった。
つまり....「いつも、何かやっている状態にする」ということ。
これはやってみたらば実にしんどい。
あまりにもしんど過ぎて煙草まで止めるハメになったし、昼寝の癖もついた。
それぐらいじゃないとずっと活動なんてしていられない。
なんせ「何処に向かっていいのかわからない」ような効率の悪い動きなのだ。
疲れるに決まっている。
もちろん完璧に、など出来るもんじゃないが...
それでも20年前以前よりは、うんと「何もしていない時間」はなくなった。
そんなことを20年も続けていれば....”わかる”ようになってくることもある。
まず一つは、これを努力と呼んで良いものなのかどうかはわからないけれども....
このような”右往左往”であっても、「何もしない」よりは人生を変えていると思うこと。
絶対だ。
かつての同じ穴の狢達を見れば一目瞭然。
何処に向かっているのかはわからないが....
穴からは出られたんじゃないか....と思う。
自己の分析というか....
自分の習性の把握というか....
そういうものも、正確になったように思う。
いやいや20年前以前も、自分では「正直に、正確に、自分のことを把握していた」と自負していたように思うんだが....
それは大間違いだったと思う。
大間違いでなければ....大きく嘘をついて誤魔化していたと思う。
現実世界の「本当の自分」は....
自分が望む習性とは大きくかけ離れた習性だったので。
完全には把握していなかったかもしれないが....
部分部分の現象では気がついていたはずだ。
臆病で、小心者なくせして格好つけだから...
いろいろ粉飾したと思う。
いや粉飾に相当力を入れていたと思う。
本筋の努力よりも。
さすがに「大きく見せる」という図々しさはなかったと思うが....
「大きく見てもらいたい」という願望は強かった。
そのために、姑息な演出を多用したと思う。
モテたいから
びびってもらいたいから
人目を惹きたいから
注目されたいから
尊敬されたいから
どうしてそう考えたのかは今じゃあまり共感できないんだが....
幼稚だったんだろうか?
ともかく、かなりみみっちい手段を講じてまで....
実体よりも虚飾していたと思う。
また.....それらからの派生であるかもしれないが....
「失敗したくない子」でもあった。
いや、「失敗を見られたくない」子だった。
だから....あえての挑戦をすることもなかった。
受験だの
大会だの
嫌でもめぐってくる戦いの場....ぐらいは逃げるわけにもいかないので、上手に挑戦したかのように見せてはいたけれども....
それでも、「勝つ戦い」ではなく「負けない戦い」を選択していたと思う。
努力を惜しんだのもそこ。
仮に失敗したとしても.....
「努力していなかったんだから仕方がないよね」「やってたら出来るよね、きっと」
という称号が欲しいのだ。
それは成功の確率よりもうんと高い確率で安易に手に入るものだから。
そんな姑息で卑怯でみっともない性格が....
どんどんどんどん露わになってくるのだから...
20年続く愚か者の右往左往も
決して無駄じゃないんだろう。
自分じゃそう思っている。