小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

呪縛

 

 

自分じゃ「間違っちゃいない」と確信していても....

発言するなら...

一言「親不孝」「恩知らず」のレッテルを貼られるだけなので...

面倒になるぐらいなら言わない方がマシ。

として封印してきた。

 

いや、むしろそんな親でも好きになれなきゃいけないのか?

に向かって努力をしたこともある。

 

でも...そんな期待を裏切るように...見事にやらかすのだ...父親は....

 

ある意味...

これが親子というものだと思っていた。

徳川家康の言う「重荷」にはこういうのもあるんだと思っていた。

女房は離婚が出来るが、親子は離縁出来ない。

ましてや血のつながりがあるなら...

離縁したところで無意味な面もある。

 

その行く末に加藤諦三先生の本に出会ったんだが...

 

自分の解釈が正しいのかどうかはわからない....としても...

まさに読めば読むほどに...

ある種のコペルニクス転回にハマっていった。

 


そうそうそんなこともあった。

見たこともないのにどーしてわかる?

 

あれだけ...

言葉で、文で(皮肉でいやらしい言い回し)、暴力で、

攻撃するぐらいに嫌いなら、憎いなら、嫌ならば

いっそ捨ててくれりゃあいいのに....

捨てないまでも無視すりゃいいのに...

なのに...どうしてそうもまとわりついてくる。

しかもけっこう不機嫌な時に限ってどうしてそんなにも近づいてくる?

 

...酔っぱらっている時のくどさなんてひどもんだった。

 

この事態からの回避の方法がわからなかった。

「嫌いだ。やめてくれ」とハッキリ言うなら発狂したかと思うほど泣きわめいたことだろう。

そうなった時には不思議と暴力性を失う。

それはある程度の年齢になってきたときにわかってきたが...

だから余計に「言えない言葉」にもなっていた。

 

「見放してくれないかぁなあ...」

何度そう思ったことか....

 

加藤先生は言った。

 

そういう親は居る。

そういう親が居る。

 

「捨てればいい」と。

物理的に捨てることが難しいのであれば...捨てるほどに距離を置けばいいと。

”親に対して”の姿勢として...

「そんなことはしてはいけない」

「そんなことは許されない」

と、「親(自ら)の地位を保全したいがための、”間違ったボタン”を植え付けられているだけのこと」

 

その呪縛から解き放たれないと...

あなたは幸せにはなれない

 

と。