小舟からⅡ

小舟から...鉄の斧...緊箍児...そして...小舟からⅡ

追い風を見つける

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「神の思し召しⅡ」でも書いたんだが...

「逆風にも逆らって生きる」

は立派なんだろうけど...

自分はそれを”捨てる”ように”努力”している。

そしてそれは決して...「頑張らないことでは...ない」とも言い聞かせている。

 

これも書いたが以前はしっかり逆らっていた。

いや、「抗う道」をあえて選択していたフシすらある。

なんだか勇ましく恰好が良いようで。

 

でも...それはある種「目的をはき違えている」行動だと思うようになった。

確かに逆風に抗いながら進もうとする様は「かっこいい」のかもしれないけど...

その結果が「疲れ果てての野垂れ死に」ならどうだろう?

さらには...多くの仲間や友人をも「道連れにしている」のならどうなんだろう?

独りよがりの自爆行為に罪もない人を「巻き込んでいる」...にはならないのだろうか?

 

逆風の中で1mしか進めなかった努力を順風において試してみるなら...

10倍も20倍も進むことを実感することもある。

 

もちろんそんなにもうまく行くことばかりじゃないが、物理的は「当たり前」のことだ。

風速30mの中で逆らって歩いてみれば誰にでも実感できる。

ましてやそこで「人間の造り出した道具の便利さ」なんて過信して傘なんざさした日には...

 

「融通が利かない」というのも愚かなものなのだ。

 

池江里佳子さんのように逆強でも力を出せる人は素晴らしい!

が、自分は彼女のように強くもなければ立派でもない。

黒板五郎は好きだけど...

現実の世界で彼を目指して果たして周囲は幸せになれるのか?

ということでもある。

 

なんでもいいのだ。

認められるなら。

なんでもいいのだ。

需要があるなら。

「私には水泳しかありません」

と恰好の良いこと言いたいんだけれども

そんなもの凡人には一つもないのだ。

 

だから...

追い風をみつけたならば

ビックリするほどに転換してでも

即座にその追い風に乗って進めばいい

と思っているのだ。

その「追い風」の方が自分の能力よりもはるかに世間に通じる力があると思うから。

 

う~ん。

やっぱりかつては己の力を過信していたな。

逆風でも自分の力の方が”勝つ”と思っていたんだから。