歳を取ってきてから...
そう...何年ぐらい前から...になるのだろう...
「そうね、これも神様の思し召しかもね」
と、それまでの目的とは正反対のことが起こってしまったとしても...
そう...考えるようにしていたらば...
いつしか考えるようになり...
いつしか考えた方がいい...と思うようになっている。
まだまだ不完全だけれども。
理屈っぽく解説するなら...
世の中の全てのことが自分の能力や意欲や姿勢で「思うようになる」わけじゃない。
むしろ...自分の意志や性格や態度など何の影響も持たないほどに残酷な「正反対」を浴びせてくる。
わかりやすいのが受験か?
一生懸命頑張ってきたのに「落ちてしまう人」
も居れば...適度に遊んでいたのに「受かってしまう人」も居たりするのが現実。
似たようなことは他にも山ほどある。
以前にも書いたと思うが...
出発が遅れて焦って運転していたのにさらにの渋滞で、イラついていたらば...
その目の前の大きな交差点が何台もの重複事故が起こっていて、通行止めになっていたこと。
まさか
とは思うが、時間に間に合うように出ていたらば...永遠に間に合わない人
になっていたかもしれない。
もっと大きなことで言うならば、東北大震災の時のような大津波など誰が来ると思えるものか...
でも、残念ながら、本人たちの努力や姿勢など考慮もしてくれず、そういうことは起こってしまうのだ。
超人願望強かった若い頃は...
「そういうことに負けちゃいけない」
「そこが頑張りどころだ」
「出来る限りそういうことを起こらないように」
と自分の力で「少しぐらいどうにか出来るはず」と自惚れていた。
「諦めない姿勢」は素晴らしいんだけど...
それでは東北大震災の被害は説明出来ない。
自分はなんの努力や対策もしていなかったくせに...たまたまに、遠く離れていたから被害に遭わなかったというだけのこと
そういうことは少なくないんじゃないか?
と妙に素直に思うようになってから...
「起こってしまったこと」は良いことも、悪いことも
「神の思し召し」とするよう「努力している」ぐらいなのだ。
いや、人のせいにしようとしているわけじゃない。
カンタンに諦めろということでもない。
ただひとつの生き物として、一生懸命に切り替える(諦める)ことぐらいしか努力が出来ないこと
なんて山ほどあるだろうということ。
ある程度ぐらいの年齢から
同級生達が死んでゆくのも現実。
けっこう若く、死にたいわけでもないのに、あんなにも健康そうだったのに、大きな病気にかかって治らなくて死んだりする。
気の毒だけれども...
そこに...「そんな病気にさえならなければ...」はない。
考えたところで...「どうにもならない悲しみ」にしか辿り着かない。
少し大袈裟な話になってしまったけれども...
こんなわずかな人生でも、そういった光景をたくさん見てくると...
「まっ、これも神様の思し召し、なんだろうね」
は、諦める、ということではなく
自分の思いを切り替えてまでして「現実を受け入れる」
つまり
「起こった事実を優先して、自分の欲を引っ込める」
ということにもなるのだろうから
たかだか「自分一人の力」を盲信するより
そりゃあうまく行くだろう
と思うようにしている(笑)
昨晩ちょとしたアクシデントで、本日の予定が全キャンセルになった。
一瞬
腹を立てそうになったが...
そこで腹を立てたら多分...「大不幸」を呼び寄せる...
の予感がしたので...
「いやあ、やること山ほど溜まっているので、ちょうど良かったかもね?ヨカッタ、ヨカッタ」
と強がることにした。
なんだか悪くない対応のように思たので、書き留めておくことにもした(笑)