「正直に言う」
「正直なことを言う」でもいい。
散々「推奨」されてきた。
ま、そうだ。
取り調べの場面でも...「嘘ついてもいいぞ」とは言わないだろうから。
「神の思し召し」信者の自分は、当然この「正直に言う」には従順だった。
が、結婚を境に...「正直に言う」ことが、全ての場面で良いわけではないということを痛感することがものすごく多くなっている。
「嘘を言う」
ということとはチョト違う。
「全部言う必要」はない。
「裏側まで説明する必要」はない。
といったところか。
これも本当の自信を備えていなかった父親は...他人に「どう思われているのか?」の”本心”を知りたかった...のだろう。
間違っている、正しい、の判断の強要よりも...
「どう思っているんだ!」と、”本心”を無理矢理にでも「聞き出そう」という折檻が多かった。
当然「それが正しい手法」と埋め込まれるようになる。
一見「自分の考えを聞いてくれる」
逆の立場なら「相手の考え方を聞いてくれる」
ようでもあり、なかなかに”人道的な”手法でもあると...”昔”は思っていた。
もちろん縁の薄い他人様にまで、この手法を強要するならば、さほどの信頼関係すら構築出来ていないので、いろいろ軋轢を生むだろうけど...
”夫婦の間”
であるならば、むしろ「本音を語り合う」ことは肝要かと...
が、今のところの結論は...
肝要どころか...それは...「見えない暴力」でもあるんだろうな、ぐらいになっている。
父親は...実に正直に...自分の本心を毎度毎度撒き散らかしていた。
「黙って我慢する」
ことが出来ない性分だったというよりも、「俺の気持ちを聞くのが家族ってもんだろう」という方針の持主だったからだ。
が、聞かされる”本音”(気持ち)は...
怯え、恐怖心、悩み、怒り、苦しみ、哀しみ、恨み、辛み、妬み....それらを...「自分が全部抱えているんだ」の主張。
しかしながらある時は...
自慢話、手柄話、武勇伝...それらは...「全部自分の力によってなされたのだよ」の広報。
つまりは...
自分の気持ちを...ブチまけたい...だけだったのだろう。
”こらえる”ことが出来なかったので。
ある意味...自分のことに目一杯で、他人を思いやる気持ちまで育っていなかったのだろう。
だから多分...一緒になって...共に?
悲しみ、苦しみ、喜んで
欲しかったのかもしれないけれども...
小さな頃ならまだしも...
自分にだって自分の”心境”が出てきてぐらいからは...
自分のことを”さておいて”まで、それらを聞かなきゃならないなんて....
(気持ち悪ーんだよ)
という心境になっていった。
という”自分”であったはずなんだが...夫婦、そして子供が出来てからというもの...そういったDNAが「家族への甘え」を育ててしまったようだ。
いつしか自分も父親同様の...
「俺の気持ちも聞いてくれ!」オヤジ
になっていたことに気が付いてきた。
発見した時は自分でも思ったわ「気持ち悪ーんだよ」って。
さすがに「気持ち悪ーぃオヤジ」とは思われたくないので...
改心継続中
なのだ(笑)
今まだ、道半ばかな?